中原昌也は恋空をいかにして超えたか

中原昌也、とタイトルにあるのに初っ端から違う作品について書きたいのですが、2007年の芥川賞受賞作に、諏訪哲史「アサッテの人」というのがありました。失踪してしまった「叔父」が普段から発していた「ポンパ」などという意味不明な言葉たちの正体を、作中の「私」が叔父の日記、叔父の妻の話、「私」自身の叔父に関する記憶などから解釈しようとする小説です。
ここで「叔父」は最終的に、「ポンパ!」などという言葉を日常的な(凡庸な=定型的な)場面の中に突如紛れ込ませることによってその空間を異化し、「物語」からの逸脱を図ろうとしたのだろう、と解釈される。たとえば以下の通り。

 吃音が「この世界の中で発声されるべきでない言葉」であったように、「世界には定式に適った言葉とそうでない言葉が存在する」と叔父は書いている。「定式に適う」とは、その言葉が発声者によって言い出されるべき時機を弁えられている、とでもいった意味であろう。これはつまり、一つの言葉が発生可能かどうかの判断は、その場の状況とタイミングに適正であるかどうかのが基準にされるということだ。(中略)
 叔父の言うこともわからないではないが、実際にわれわれの言語活動は、そのような狭隘な領域を無意識裡に選び取りながら行われていることも否めない事実ではある。場面場面でその判断が下され、それが連続した澱みない言葉の流れをつくってゆく。この流れを踏み外した時、はじめて言葉は世界から放逐される。

あるいは叔父の日記の引用部分から。

 僕の背後には常に「意志」が立っていた。抗おうとして振り向くと、振り向いた僕の後ろに彼は立っていた。彼は静かに立っている。僕の背に銃が突き付けられ、前へ進むように命じる。僕は命じられるがまま、両手を上げ、おぼつかない足取りで前へ前へと進んでゆく。(中略)
 銃口の幻影は消え去ったが、何かから「身を翻す」という反射衝動は概念化されて僕の中にとどまり根を張った。やがて吃音の消滅が訪れ、反動による言語的な懐疑に陥ってよりのち、極めて特殊な叛骨精神を宗とするに至ったのである。それは一個の「アサッテ男」の誕生でもあった。
 自分の行動から意味を剥奪すること。通念から身を翻すこと。世を統べる法に対して、圧倒的に無関係な位置に至ること。これがあの頃の僕の、「アサッテ男」としての抵抗の全てだった。

ここでは「物語」は「超越的存在(=神or社会)の意思によって提示された人生モデル」という意味を超えて、個々人がしゃべる言葉(=セリフ?)にまで適用範囲が及んでいる。中島義道の言うところの、世間語? 要するにある言葉はある「環境」である「経験」を通すことで生まれるわけですが、この「経験」「環境」もまた社会・伝統が用意したものなら、ぼく(たち)は結局「社会にしゃべらされている」だけなんじゃないか、ということですね。で、この「社会」「神」の支配下から抜け出して、自力で立脚しようという意思、それが「アサッテ」につながる。よく「意味不明」「つまらん」「めちゃくちゃ」と評される中原昌也の小説を、というか中原昌也の言語活動を広義の「アサッテ」的行為として捉えてみると少しわかりやすくなるんじゃないか、てことで最初にアサッテの人をオススメしてみたのでした。これがよく理解できた、おもしろかった、と思う人はぜひ中原昌也を読んでみてください。


①断片の集積、紋切り型の多用、身体性の排除
断片の集積による物語への反抗、についてはもう「コミュ力のない奴は死ね、と社会が言う」で書き散らしたのでもう書くの遠慮しますが、中原昌也が「新しい」のはその部分ではないのだ。彼の小説、ぺらっぺらのスカスカなのである。人物も徹底的にフェイクっぽいし、その語り口・語彙のチョイスも安直で安っぽい。一言で言うと、頭が悪い。

 その夜、近所の公園で、ピーピーと小鳥の鳴き声が、長い時間聞こえた。池のそばのゴミ捨て場に鳥かごごと二羽の小鳥が捨てられていたのだった。
小鳥A「ここはどこなんだろう?」
小鳥B「どこなんだろう?」
 そんな会話をしているのか、と思われる最中に、薄汚いルンペンが鳥カゴに手を突っ込み、ムシャムシャと二羽を喰っちまった。このルンペンには、小鳥のことをカワイイとか思う、弱者をいたわる心の余裕などなかったのだろうか?よく街で見かけるルンペンは、独り言をブツブツ言ったりしている人が多いような気がする。きっとちゃんと話をすればいいルンペンもいる筈だ。しかし、小鳥を平気で生で食べる、このルンペンは違った。悪いルンペンだ。(ジェネレーション・オブ・マイアミ・サウンドマシーン)

なんかもう、引用しててニヤニャがとまらんのですけど、この部分に初期の中原昌也のすべての要素が詰まっているのだ。
小鳥が会話している、という幼稚な擬人法。しかもその会話の内容にも何の工夫もない。あるいは、ルンペン(いわゆるホームレス)の身体性のなさ。人間が小鳥を生で食す、という異常な事態が書かれているのにもかかわらず、描写が「ムシャムシャ」というこれまた安易な擬音以外に何もない。そして、「弱者をいたわる心の余裕」という紋切り型のフレーズ。「悪いルンペンだ」というおざなりな結論。
この紋切り型の多用、雑な文章の羅列こそ中原昌也が称賛される最大の理由で、その理屈を簡単にまとめると要するに「紋切り型を安易に使いまくることでそういった言葉の馬鹿馬鹿しさ、軽薄さを強調し、紋切り型の臭みに無自覚な人々を皮肉っている」と。この理屈は「嫌いな言葉をこの世界から消す方法」でぼくが書いたこととちょっと似ていて、だからそれを小説の中で実践してる、とも言えるんじゃないかと思う。中原昌也自身が一体どこまで自分の小説に自覚的なのか本当のところわからないけども、結果として頭スカスカの馬鹿が自己顕示欲だけに突き動かされて単なる受け売りに過ぎない言葉を意味深ぶって言っちゃったりするような状況をうまく戯画化できてることは間違いないし、それを絶妙なギャグで仕立て上げるところなんかはやっぱり才能なんだろうなと思う。
まあ、そういった「世間語」を垂れ流す人間は昔から一定数いたはずなのだけど、いまさら何故中原昌也の小説が切実に面白いのかというと、やっぱりネット社会が原因でしょうね。つまり、昔は自分の文章を公に発表できるのは限られた人々だけだった。ある一定程度のリテラシーをもった人々によって認められた作家が辛うじて言葉=主観を公表できたというわけなのに、今となってはもう、誰だって、馬鹿でも、チンカスでも、パソコンやケータイさえあれば自分の言葉を垂れ流せるのである。ブログやら、ツイッターやらでね。や、今まさにド素人のくせブログしてるぼくですけどもw 渋谷なうとかイヤ知らんし。オマエがどこいようが関係ねえんだよ。あるいは今日○○を食べに行きました!ってどうでもよすぎて涙でてくるわ。もうなんか自己顕示欲が先走りすぎて言葉がついてこれてないのだ。
まあ頭スカスカならそれらしくしてりゃまだいいのですけども、やっぱりなんか頭よく見せたいらしくたまに深い/重い言葉をそれっぽく言いたくなっちゃうんですよね。で、なんかオシャレにポエム書いたり小説書いたり人生論語ってみちゃったりする。「ふだんはフザけてるけど、実はマジメで思慮深いアタシ☆」の演出である。

 俺たちの暮らしや社会は、長い歴史の中で虐殺による犠牲を伴いながらも、着実な向上発展を遂げてきた。その裏には何億もの犠牲者がいたことを、決して忘れてはならない。今でこそ大量虐殺は非常に稀なものになったが、以前は権力者があたかも花火でもあげたかの如く派手にやっていたものだ。そういった犠牲者があって、初めて人々は戦争や全体主義の引き起こす悲惨さを学んだのである。これは決して無駄なことではなかった。(中略)
 そして俺は「いまからでも遅くない、ソーシャルワーカーの資格を取って人々の役に立つことをしようじゃないか。高齢者や障害者に対する、わが国の人間の感情は余りにも冷たすぎる。まずその部分から変革していこう」と安易に思い付いたのだった。(ソーシャルワーカーの誕生)

中学生の作文かよwって感じの、中原昌也からの引用。このもっともらしさはやっぱりさすがだと思う。言っていることは何も間違っていない、それなのに鼻で笑ってしまう。なぜならその言葉があまりにも唐突に出てきて、そこにいたるまでの文脈がまるで確立されていないからだ。
ということでぼくも紋切り型の多用=皮肉という説には全面的に賛成で、それ以上に付け加えることはなんにもないのですが、ほとんどの中原昌也論がここでとどまってしまってるように思えるのは気のせいですか。まあネット上のレビューと、文庫の解説見ただけなんでオマエがそれしか読んでないだけだろと言われればハイって素直にショボンしますけどね。しかし、少なくとも紋切り型の多用だけではさっき書いたような「アサッテ」にはならないでしょう。身体性の欠如、論理性無視の雑な展開、紋切り型のオンパレード。これじゃただの恋空のデフォルメにすぎない。いや、そこにギャグ要素を盛り込んだ点はやっぱり評価すべきだとおもうけれども。しかしながら恋空、ド天然なのである。その手法をマネっこして凝縮するだけじゃ本家のイタイタしさにはとうてい敵わない(まあ、恋空の方がずっとあとの作品だけども)。そこで彼は並列するのではなく、定型の中に異物を紛れ込ませること(=アサッテ)を思いついたのだ(ということにする)。


②物語の異物化
「物語」内の「セリフ」、あるいは「物語」そのものは、長い年月が経過し、何度も繰り返し使われるうちに形骸化する。
たとえば、ある人物Aがいて、彼が自分とはまるっきり性格も趣味も異なる連中が集う環境に放り込まれたとする。彼はその環境に適応しようとするが、上手くいかない。連中の性格に合わせて演技しようとすればするほど空回りする。そこでAは何を考えるか?「どんなに変わろうと努力しても疲れるだけで、結局オレはオレでしかいられない。だからオレは、ありのままの自分でいよう」この言葉はOKである。なぜなら「ありのままの自分」という言葉を練り上げるまでに長い過程を踏んでいるからだ。そこには「実感」が備わっている。ところが、自分の考えを「ありのままの自分」というワンフレーズに集約させていったん落ち着いてしまうと、もうそこから形骸化がはじまるのだ。つまり、その既製品の言葉に依存するあまりにいつしかそこに至るまでの過程を忘れてしまう。実感が失われる。「ありのままの自分」というそれっぽい響きだけが残る。否定を重ねる以外に真理を言葉で表すなんて究極的には無理なのだから、どこまでは「ありのまま」でいいのか、その境界線のあいまいさを利用して「ありのままの自分」はいつしか自分の勝手な都合で使われるようになる。乱用の始まりである。本人ですらこれだ。いわんや他人をや。もう思わず古語使っちゃいますよ。いくらそこに行きつくまでの過程を含めてある言葉を表現者側が提示しようと、受け手は結局お持ち帰り可能な結論=言葉だけを頂戴し、過程は無視する(傾向にある)。「過程」しか提示しないのが小説なんですよねえ。で、「結論」しか提示しないのが格言とか金言とかいわゆる「深いい言葉」なわけよ。結論だけをお持ち帰りして、得意げに見せびらかした結果インフレした言葉、これこそが「紋切り型」であり「形骸化された言語」である。
で、これは「物語」そのものにも言えることでして、たとえば明治期の日本なんて欧米がたくさんの血を流してようやく作り上げた社会体制(=物語)をそのまま頂戴しちゃってるだけじゃん、ばかじゃん、って夏目漱石なんかも批判してましたからねえ。戦後もおんなじことやってるみたいだし(笑) 日本人は言われたことをそのまま鵜呑みにしちゃう、っていう批判をよく耳にするくらいですから、そういう精神性なのかもね。紋切り型量産社会、日本。みたいな。まあ僕自身、言葉や観念以外のとこでは既製品に甘えたがる傾向にあるので心ぐるしいですけども。
でもまあ「コミュ力ない奴は〜」のとこで書いたように結局「物語」ていうのは断片を理屈でつぎはぎしたマガイモノでしかないわけですから、時間の経過とともにA君の言葉と同じようなプロセスで形骸化していくわけです。こんなの見つけたんで張っちゃおうかな。

 ふつう伝統は、つぎのようなかたちで定義されている。「いく世代にもわたって過去から受け継がれた信念や慣習、行動類型をいう」と。しかしこの種の辞書的定義は、伝統なるものの重要な諸点を全く見落としている。現在の動物社会学は、つぎのことを確認しているのである。つまり、人間以外の動物であっては、それぞれの種に特殊な諸本能が、当の種における社会行動のパターンをほぼ決定してしまう。だが幸か不幸か人間の場合には、社会のパターンを決定するような「諸本能」は、いかなる遺伝によっても与えられていない。(中略)
 ここで、人間社会のさまざまな伝統なるものが、いかなる役割を演じるかが明らかとなる。つまり伝統の役割は、人間以外の動物における諸本能―社会行動のパターンを規定するもの―の役割に対応しているのだ。
 したがって、伝統は、ひとたび確立されたならば当の集団に属する人々に強力な規制力を発揮する。いや、むしろ、そのような規制力を発揮するものが伝統と呼ばれる、といっていいくらいである。だが人間の伝統は、人間の動物の本能の場合よりも固定性の少ないものであり、いわばその柔軟性は、人々を強く規制しながらも、伝統が人間によって変えられ更新されることが可能だ、という事実にもっとも明瞭に見ることができる。
 ある伝統が創造されるとか、更新されるのがどのようにしてであるか、という事情は以下のように説明することができるだろう。
 まず第一に、いかなる伝統も長い時間の経過のうちには、初めの生き生きとした自覚的に体験された意味を失って、定例化され形骸化される強き傾きを持っている(そうさせないためには意識的な努力が必要となる)。そしてついには形骸化された伝統は、初期の目的とは逆行する方向へ機能するにいたりさえする。(中略)
 つまり形骸化して死んだ伝統が新しい形態でよみがえるためには、なんらかの例外的諸個人の例外的努力がどうしても必要に思われる点である。(中略)
 このような少数個人のことを、わたしは「キー・パースン」(Key persons)と呼んできている。(中略)この種の少数事例(主として少数個人の動向)が社会の大量減少にも大きい影響をあたえることがありうるからである。まさにこの理由から、わたしは「キー・パースン」概念の重要性を主張しているのである。 

パーンてなんかダサいなwていうのはおいときまして、市井三郎「伝統と革新の歴史と論理」からの引用です。難解げなタイトルですが、まあ内容はけっこうわかりやすいでしょ。こんなタイトルの本には手を伸ばす気になりませんけどねふつう。実は2006年早稲田大学法学部の入試現代文からの抜粋なのでした。
「伝統」を「物語」に言いかえれば今までぼくの書いてきたこととリンクする、はずです。で、「マリ&フィフィ〜」「子猫〜」においてはまだ恋空のような「ヒドい」小説をデフォルメし、道徳の教科書的紋切り型とバイオレンス・下ネタを並べるだけにとどまっていた中原昌也は、「名もなき孤児たちの墓」で、その「形骸化された物語」に異物を放り込むことで、その空虚さを強調するという新たなステップに踏み出すのだ。

 自ら作り上げたロボットであっても、わが子のような愛情を惜しみなく与える平賀氏の博愛精神は、近年海外でも賞賛の嵐だ。しかし、かつてはとんでもない残忍な犯罪に手を染めたことを、突然告白し始めた。
「若い頃かなりのワルで、深酒からシンナーまでなんだってやりました。何度か女性の残殺事件に関与したこともありました……情けない話で恐縮ですが……その都度、実際の主犯格は僕ではないのですね。しかし、まだ道徳感のはっきりしてなかった時分のことですから。大目に見て欲しいですよ。ここの部分は掲載時に、割と同情的にアレンジして書き起こして欲しいものです」
 可能な限り手当たり次第、目に付いた女性は凌辱し、家畜のように撲殺すべきた……人目など憚ることなく、遠慮など野暮なものはいらぬ……。そんな倫理的に過った時期が、本当は誰しも必要なのではないだろうか。間違ったことは本当に実践してみなければ本当に間違っているかどうかなんてわかってたまるものか。女性をなんの良心もなく家畜のように撲殺した経験のない奴に、本当の優しさなんてわかってたまるかよ、人間の値打ちなんてわかるかよ……そんな怒りにも似た感情を押し殺し、あくまでも平賀氏は人道的な姿勢を貫く。業界のトップは、常に人格者であらねばならないのだ。(私のパソコンタイムズ顛末記)

や、もう爆笑するとこですここは。笑いを説明するのは非常にばかげているのであんまり気が進みませんけども、要するにここでは「昔ヤンチャしていました」系のベタなインタビュー記事の形態をとって、その空疎さを嘲笑っている。何を「万引き」とか「未成年煙草」ぐらいのノリで「手当たり次第女性を凌辱」とかサラリと抜かしてるんだコイツはww倫理的に間違いすぎだろwwみたいなね。そのもっともらしい言い回しに「女性を凌辱/撲殺」というドギツイ言葉を投げ込むことで、形骸化された言葉の輪郭を、グロテスクに浮かび上がらせるのである。


③非「キー・パースン」性の自覚
長えな。まだまだ続きます。「私のパソコンタイムズ顛末記」以降、中原の小説は急につまんなくなる。ように少なくともぼくは感じる。なんか全体的にすごい憂鬱なかんじになるのである。断片的で物語性がないのは相変わらずのまま、以前の過激でパチパチはじけるような軽薄な言葉たちも影をひそめ、むろんギャグもなく、ただなんとなくどよんと暗い描写が具体性もなくえんえん続く。ぼくはマンガにぜんぜん詳しくないのだけど、ギャグ漫画家はのちに発狂したり鬱っぽくなる人が多いらしい。このブログで以前とりあげた古谷実も元々は「稲中卓球部」っていうギャグ漫画で有名だったらしいしね。そこでぼくは中原昌也にもおんなじことが起きたんじゃないかと想像するわけですけど、それは何かというと、ようするに中原が「マリ&フィフィ」「子猫」でやってたギャグっていうのは既存のものを破壊することで生まれた笑いでしょう。で、自分の中でどんどん物語を解体していくうちに、結局「空虚」だけが残って、そこで初めて自分はその「空虚」の中から新たなモノを再構築する能力がないことに気づいてしまったのではないか。すると可能性として表われるのは「書くことの放棄」である。だが貧乏な彼は、「食うために」「生きるために」書かねばならない。
結果として中原昌也は、「書きたくない」「もう書けない」と書くことを選択せざるをえなくなる。

現存する物語のマガイモノ性、バカバカしさに気付いたものの、そこから独自の物語を築き上げることのできない人間の末路は悲惨だ。表現される価値のある言葉とは何か? それは正しい、真実の言葉なんかではないとぼくは考える。「正しい/正しくない」という基準が結局権力側の都合によるものでしかないのなら、「正しい言葉」を吐くことは社会がこしらえた物語を強化することにしかならないのである。だから、望まれるのは、「新しい言葉」だ。暴論が議論を促進する、だっけか、それと同じ論理だね。要するに間違っている(かもしれない)新しい言葉をぶつけられることで、ひとは、出来あいのモノを一度破壊することができるのである。新しい言葉が間違ったものなら、それは再構築されるだろう。正しければ、新しく作りかえられるだろう。ところが、まあ、歴史を知れば知るほど厳密には「新しい言葉」を吐くことができないとわかってくるわけだね。自分が考え、表現しようと思ったことは、もう既に考えられ/表現されている。オリジナリティあふるる内容が無理なら、到達する内容が同じでも、そこに至るまでオリジナリティあふるる道筋をたどればよいのではないか、と考えても、たぶん、だめだったのだろうね。中原昌也は決して文学が嫌いじゃない(はずな)のだが、さまざまな創作物を知れば知るほど、自分に新しい言葉を吐くことなどできない、自分は、市井三郎のいう「キー・パースン」なんかではないと自覚していったのではないか。
もちろん、これは公に対して表現する場合の話ですけどもね。小説という媒体を通して、自分の言葉を公に発信せねばならない立場に追いやられているのだから、書くことに対して誠実な中原昌也はここまで徹底してオリジナリティにこだわらねばならないのだ。じゃ、私人間でのコミュニーションはどうなのか、ということについて。大切なのは未言語情報だとぼくは考えてます。勝手に言葉つくっちゃいましたけども。未言語情報、要するに「内容」であれ、「道筋」であれ、今しゃべっている相手の中で未だ言語化されていない(であろう)共通項だけを伝える。さすがに歴史性まで考慮に入れると失語症になりますからね(笑) でも、それにしてもそんなこと果たして可能なのか。しらね。まあたぶん無理ですけどね。結局私人間でとりかわされるコミュニケーション、いわゆる「おしゃべり」なんてのは「表現」「伝達」というよりは「存在の発信」でしかないのだ。声を出す、とりあえず何らかの言葉を発することで、自分はここに在りますよー、とアピールする。そして相手の言葉に反応することで、アナタがここに在ることを認識してますよー、と確認する。極論をいえば、ひとは、存在を発信しなければ単なる「たんぱく質の塊」としか認識されないんじゃないかという気がする。「自分」はこんなに大切な世界唯一の「自分」なのに、他者からは「たんぱく質の塊」としか見られていない、このアンバランスを補おうとするのが自己顕示欲なら、ひとは、「自分」として生きていくために、どんなに退屈な内容だろうと、気に食わぬ既存の物語に沿っているだけであろうと、言葉を発しつづけなければならない。「生きるため」無理にでも言葉を紡がねばならない中原昌也の苦悩は、ここで普遍性をもつだろう。
特に今はねー。ネットもあるしね。誰でも、キー・パースンからもっとも隔たっているようなバカでも言葉を公に発信することが許されちゃう。しかも「オンリーワンな自分」ですから、自己顕示欲を恥とも思わない。駅前でなんの印象も残らない歌声をえんえん披露してる、お前だよ、お前。


④放逐される言語リズム
新しい言葉を吐けない、ということを自覚するとどこへ向かうか。意味を、シニフィエを放棄し、その言葉の持つ音楽性に目を向けることとなる。で、示されるのが以下の引用。この記事で初めに引用した「アサッテの人」で言及された「言語の放逐」と、無意味な超長尺文。

ヘアスタイルは人目につくタイプのものが好まれる/怒声とともに破損された街灯の放置/緊急事態につき自宅の標札を外すよう警告/必死に旗を振る無駄/人生成功の機会永遠に与えられず/飼い猫を白い壁にたたきつける業務/便所の大々的偽装工事/誰の関心も引かぬ手書きの死亡記事/高速道路の中央分離帯に長時間潜む女/陰気な公共建設物の無人落成式/歴史上の偉人らが陽気に復活して通行人から軽蔑の眼差し/

ニートピア2010」の「誰が見てもひとでなし」から。このペースで見開き2ページ以上延々つづく。傑作。

駅の駐輪場で自転車が何台も同時に倒れたのだが、自分の自転車を出そうとした中年男性が不意にぶつかって倒してしまったようなのだが、そのような事態になってしまっているのに中年男性は気がつかなかったらしく、片付けずに立ち去って、それで判明したのは中年男性は鈍感だということなのだが、ガチャンという自転車の倒れる音くらい気がついたはずなのに、ぜんぜんその音が耳に入らなかったか、あるいは意識的にスルーしたのか、または自転車というものがドミノのように次々と倒れるという現象自体、まったく頭になかったことなのか、いずれにせよ中年男性は倒れた機械の塊のようになった自転車を片付けることをしなかったのだが、その中年男性を鈍感と呼ぶべきか責任感がまるでないというべきか……路上に出るとすぐに自転車に乗ってしまい、もう自転車に乗るとなかなか後ろを振り向くというのは難しく、それでも他の自転車が倒れる音に気付かなかったというのは常識的に解せないのであるが、

これはどうなんすかね(笑)同じく「ニートピア2010」の「事態は悪化する」から。これも3ページつかってたけど、正直ぜんぜんうまくないと思う。あとは、同じ場面が表現をちょっとずつ変えて繰り返される「怪力の文芸編集者」とかは、おもしろい。

これからどうなるんでしょうね中原昌也は。二年ぶりに「悲惨すぎる家なき子の死」という短編を文藝冬号に載せてましたけど、パラ読みで恐縮ですが、また「書きたくない」って書いてたね。それも今までの惨めったらしいかんじじゃなくて、「死んでしまえ」みたいなルサンチマンにあふれた言葉が出てきていました。あちゃー。でもたまにすごく面白いから目が離せない。次回はついに、ポスト中原昌也、コンスタントに中原より面白い木下古栗について書きます!うわお