綿谷りさ「勝手にふるえてろ」

めっちゃ久々の更新。つかブログの存在自体ほぼ忘れていた。あけましておめでとうございます。通称あけおめ。誰がこれ最初に省略したんでしょうね。おはござ、とは誰も言わない。

そして小説読んだのもかなりひさびさ、木下古栗「いい女vsいい女」(超傑作です。でもレビューは書けない)以来なのですが、いやー、綿谷りさすごく良かった。蹴りたい背中のときはそんなにピンとこなかったけどこのひとこんなに面白い作家だったのか。勝手にふるえてろ。タイトルもいい。

26歳、処女、モテない女が理想の男イチと自分を愛してくれる男ニの間で揺れるお話だ。まあこの構図自体は極めて凡庸、あいのりみたいな番組で見られそうなありきたりな設定だし、実際この小説に不満がないかといえばそんなことはない。元オタクのうじうじした性格なのに、突如謎の行動力を発揮したりするところには微妙に違和感を感じた。まあ、その極端なブレ方こそリアルなのだ、といえばそんな気もしてくるけれど、中学卒業以来10年以上あこがれ続け、他人の名を騙って同窓会を開催してまで会いたかったイチに、名前を覚えられていなかったというだけでそれほど落ち込むことなのか。主人公、たったこれだけのことで理想の男イチを諦めてしまうのである。その後イチは登場しない。これは小説として致命的な欠陥だと思う。主人公がイチと相思相愛の関係にある、と妄想し続けたのならこんなこともあり得るだろうけども、中学時代の自分たちの関係性を主人公はわりあい冷静に分析できていたのにこれはおかしいだろう。あとイチが主人公に対し絶滅動物について長々語るとこも、え、そういうキャラだったの、と驚いた。幻滅するとしたらむしろこのシーンだったんじゃないか。細かいところでリアリティーがない。

が、まあそういったプロット上の諸々の欠点なんかどうでもよくなるくらい主人公のキャラがひねくれていて面白い。アマゾンのレビューなんか見てみてもやけに評価の低い作品だけれど、プロットばっかり気にかけてるからそうなるのだ。トイレの音消しがもはやマナー化していてウザいから、周りの音消しの音にまぎれて「思いきり無修正で致す」のを「昼休みのささやかな楽しみ」にしている、というくだりがしょっぱなからかまされていて、もうそれだけでこの作家を好きになってしまった。「ほれた者負け」という言葉に対するツッコミも冴えている。あげてくとキリがないけど、こういうとこなんかも毒があって非常にいい。

他人の結婚とかあめでたについて考えはじめると私は途端にケチな気分になる。男の人を紹介してくれるどころか合コンにすら呼んでくれなかった先輩が、結婚妊娠で散々祝われてご祝儀だけきっちり徴収して、産休に入ると仕事のことなんか思い出したくないのか彼女の仕事を肩代わりしてやってる私たちには何の連絡もいれず、忘れたころにゲリラ的に一斉送信の赤ちゃんの写真付きメールを送信してくる、その一連の行動の繰り返しですっかり素直に祝えなくなってしまった。本人にとっては感動的なわが子の誕生かもしれないけれど、私にとってはその辺でごろごろ生まれてる赤ん坊のうちの一人でしかない。

「ゲリラ的」「ごろごろ」あたりの言葉選びのセンスとか素晴らしいです。性格悪いなー(笑) 良識ある社会人の方々なら顔をしかめるだろう、器の小さいゆがんだ「正論」だ。綿谷りさはもうこの方向で今後も頑張ってほしいです。


ひさびさに小説を読んで思ったけれど、純文学を読むっていうのはやっぱり「言語による表現そのもの」を楽しむ部分が大きいような気がする。当然だがボキャブラリーも非常に豊富だし、見慣れたものを意外な角度から表現されるからなんかハッと目が覚めるかんじがするのだね。その対象は非常にせこい、ちっこいものだったりするから、「社会・人生を語る」のがすなわち「高尚・知的」だと信じて疑わないバカには生涯わからない感覚だろうが、自分のなかで固定されていたものがこわされていく「知的な」快感というのは、(多少大げさにせよ)ほんとはこういうことをいうんじゃないか。人生論なんか読んでみろよ。どれもこれも聞いたことある言葉ばっかりじゃないか。何が面白いんだあんなの。社会的に成功してらっしゃる人のインタビュー、なんかほんっとにツマランよね。「視野が広がった」「勉強になった」なんて一体どの口が言うのか。何故誰もツマランと言わない。もちろん、その人がそういう信念を持って行動してその地位に至ったことは文句なしに尊敬に値すると思う、が、その言葉が凡庸ゆえに退屈で、退屈であるがゆえに何の衝撃もこちらの胸に植えつけないことに変わりはないだろう。一応社会的な成功を収めたいという欲望もぼくのなかにはあるが、正直それを読んだところで「まあそうでしょうね」「ああ、適合された考えってこんなんなんだな」「こういう考え方すれば支持されるんだな」という醒めた感想しか浮かばない。何度でも言うけれど価値ある言葉とは「正しい言葉」じゃなく「新しい言葉」である。凡庸な人生論と斬新な下ネタ、ぼくだったら迷うことなく後者をとります。

で、こういうぼくの文学の楽しみかた、不安定さ、破壊(および再構築?)を期待する楽しみ方って実はお笑いにも通じるものじゃないかと思ったのでした。前にバカリズムについてちょろっとこのブログで書いたけれど、ブラックマヨネーズの漫才やバナナマンのコントなんてのは日常の非常に細かいところに目を付けて、表現して、笑いに変えている。あるいは大喜利ナンバー1を決める一本グランプリなんか観ていてもそうだ。まあ今は全然考えがまとまっていないので詳しくは書けないけども。そのうちいろいろ書いてこうかとも思う。まあ笑いを語るのは若干恥ずかしい。「語られる対象」と「語るために吐き出された言語」がすぐに乖離するからだ。木下古栗について書いたとき起きた現象だね。まあでも恥ずかしくても書いちゃう。今注目してるのは、ブラマヨ吉田、有吉、バナナマン設楽、博多大吉、天竺鼠川原、野生爆弾川島、バカリズム、あたりか。