クリスマスってわけで非モテについて非モテが語る

昨日ちょっと用があって夕方新宿いったんですけど眩しかったねー。街が。なんかもうキラキラしてんの建物も人々も。
まあ(いわゆる)非モテは全員思ってるだろうけどいい加減クリスマス廃止しろって思うね。クリスマス=デートみたくなってんの日本だけ、ってのは有名な話で、まあだからって日本はおかしいということにはならないと思うけども、しかしねえ、この日が訪れることによって自分に彼氏/彼女がいる/いないのが必然的に周囲の人間にばれるってのはまあホントに変な話ですよ。プライバシーも何もあったもんじゃないね。家族or友人には絶対ばれるシステム。やけにプレッシャーかかるんだけどなんぞこれ。
もうクリスマス前になると大学では自意識の無言の攻防戦が繰り広げられてますw 11月後半くらいまでは「クリスマスひとりだーw」的自虐がちらほら飛び交うんですけども、本格的にクリスマスが近づくとピタリとそういう言葉が聞かれなくなる。
何故か?
予定が埋まってくってのももちろんあるだろうけど、あいつホントは黙ってるけど恋人いるんじゃないか的な疑心暗鬼が芽生えるからだ。彼女いないけど家にこもってるのは悲しすぎるからせめて友達と過ごそうかなと思うものの、「アイツほんとは…」と疑心が芽生えて踏み出せない上に、自分から友達をクリスマスに誘うのはプライドが許さない。クリスマスなんぞ彼女がいなくたって平気で過ごせるぜー的スタンスを出来れば保ちたい。「クリスマス遊ばね?」などと同性の友人に言ったらもうクリスマス補填要員として誘ってるのがバレバレである。その上「ごめんオレ彼女いるからw」などと断られたらこれはもう一生もののトラウマである。でも誘わなければこのまま自宅だ。どうする。どうする。プライドとプライドが格闘する。世間様の目が気になる。腹の探り合い。うぎゃー。
てまあ全部妄想ですけど。意外とあたってんじゃないか。

もうアホくさくてたまりません。アホの一員であることを自覚の上でいいますけどやっぱり馬鹿らしいでしょこんなもん。まあ焦りがあるからクリスマス前は女の子もガードがゆるくなるしそういう意味では恩恵があるのか。ねえよ。全然ねえよ。しかもねえ、最初のとこに話戻しますけど、電車にもカップルがいっぱい載ってるわけですけど、ひとり、男で、めっちゃ浅く席にこしかけて彼女の髪なでなでしてる奴がいてさすがのおれも眼つぶししてやりたくなりました。まず何より足じゃまだよお前。彼女といるオレ勝ち組だぜっていう自意識がもう毛穴中から吹きこぼれてるんだけどなんなの。まあいいや。

非モテは誰と戦うのか? これが今回のテーマである。まず非モテとは何か、と定義する必要があるわけだけれど、これには二つのタイプがあるとおもう。
①好きな異性がいない。から必然的に恋人もいない。実はそんなに恋愛に興味ないがなんとなく年齢を考えて焦っている。
②好きな異性もいるし恋愛がしたいのにモテない。異性に相手にされない。
まあ厳密に分かれるわけでもないだろう。たとえばルックスがいいから異性に積極的にアプローチされる、その結果その人に惚れるなんてことがあるはずなわけで、異性に相手にされないからその機会がなく、いまいち恋愛への意欲がわかずにいる、とか。

で、まあなんとなくだが非モテは自己を①だと認識したがり、恋愛強者は非モテを②だと認識したがるクセがあるわけだね。ここで非モテと恋愛強者の確執が生まれる。非モテは自己を①だと思ってるから、周りの無言のプレッシャーこそ苦悩の原因だと考える。そこで次のような発言が(ネット上で、?)なされる。「別に彼女ほしくない」「恋愛至上主義うざい」「一人が好き」 で、恋愛強者は非モテを②としか認識していないので次のように言う。「無理すんなー」「恋愛は人を成長させるゾ」「非モテが正当化に必死だなw」

まあ、①か②か正直自分でもあんまわかってないが少なくともぼくは非モテなわけで、だから非モテ側に同調したくはなるのだが、そこをぐっと抑えて恋愛強者側の視点に少し立ってみると、多分「恋愛至上主義」に対して吠えている非モテたちを、彼らは実際少し不思議に思っているんじゃないか。何をそんな吠えてるのかと。わからないから、とりあえず安易に「嫉妬」「正当化」「強がり」といった言葉で理由付けして処理する。別に恋愛至上主義なんかねえよ。ただ純粋に自分らの恋愛を楽しんでるだけだわ。みたいな。いや、異性に人気ない奴を、モテる自分と比較してさげすむことは実際心の中でしているのかもしれないけども、それにしても非モテ側が必要以上に力みすぎている感じはなくはない。じゃあ彼らは一体誰と戦っているのか?

本当は、「このくらいの年齢になったら甘い恋愛をしているだろうと勝手に予測していた過去の自分」なのではないか。耳をすませば、が鬱映画としてネット上でネタにされてるのがいちばんいい例だろう。恋愛もの青春ものの映画なんて腐るほどあるのに何故「耳をすませば」なのか。幼いころ、何の気なしに見ていて、大きくなったらこんな感じなのかなとなんとなく想像していた、そんな内容の映画だから、じゃないか(実際あれほど甘酸っぱい青春おくれる人間なんてそういないだろうけども)。この、なんとなく、という無意識に食い込んでくる部分が曲者だ。彼は、苦悩から逃れるために「これだけが青春の形ではないはずだ」という認識を急いでつくりあげなければならない。
言葉の上で、意識の上でそういった発言をするのは簡単だろう。だが心の奥底では自分の発言に納得しきれていない。幼いころにしみ込んだ観念はなかなか抜けないだろう。恋愛強者はそこに付け入る隙を見つけ、「自己正当化に必死だなww強がるなよ」と言う。まあ確かに強がりだろう。しかしまあこれは非モテ問題以外にも言えることだけれど、そこに何らかの残念な自意識が伴ったからといって、発言の内容そのものまで誤りであると切り捨てることはできるのか? 非モテたちの怒りは果たして「必死さ」だけで作られたものなのか、という。弱者のほうが物事全体を俯瞰できる、というのは確実にあるわけでしてね。

まあでもそんなに思い悩むことじゃないだろう。本当は。というかぼくの場合は、なんか周りに「恋愛と全然縁がありません」的なやつが多いし、ふつうにイケメンでおしゃれなやつが彼女いない歴=年齢で卑屈になったりしてるんで(笑)おれがいないのもフツーかなあみたいになってます。自虐ネタとしては結構おもしろい。一番必死だったのは中3くらいのときかな。自分の抱いてた中高生のイメージに現実を近付けようと頑張ったんだろう。電車のなかとか、ファミレスとかで、茶髪で巻き髪の女子大生数名にたまに遭遇するけど、ああいうのがそばにいたら鬱陶しいだろうね。耳を傾ければ聞こえてくる言葉は「イケメン」「かっこいい」「カレシ」みたいなのばっかりだ。マ○コで会話してんのかお前らは。