内向的性格は結局「損」なのか

てことでおよそ3ケ月ぶりに更新。まあ書きたいことはたくさんあるのですが、体系化されてないからどう切り貼りしていいのかわからないんで、カオスな感じになってしまうかもわかりませんが、ま、いいか。

ぼくは高校生のとき「自分探し」みたいな言葉をちょっとバカにしていたのだけれど、この一年ほどの間ぼくが思考してきたことをザックリまとめればやはり「自分は何者なのか」ということになるのだろう。今日はその思考の過程をここに吐き出すつもりなんで、おそらくこのブログ史上もっとも自分語りの激しい回になるでしょう。あしからず。ま共感できるとこだけしてください。
小中学生のころ、つまりまだ自我が芽生える(?)前のぼくは結構明るい性格だったように思う。友達も、まあ少なくはなかったし、小学校の卒業アルバム見てもなんかはしゃいでる(笑)のですが、高校に入って文学とか読み始めてから無口になって、醒めた性格になった。というかそういう性格になったから文学にはまったのか、まあそのへんの前後関係はよくわからないが、中高一貫校に通っていたから(つまり中→高と対人環境が全く変化しないから)自分が世間の感覚とずれてきてることにほとんど気付かなかったんですね。ひとりでいるときはフルクリ最高〜とか考えてヘラヘラしてりゃよかった。で大学入ってびっくり。なじめねえええええ! 誰じゃこいつらつまんねええええ! 仲のいい友達が多数いるっていうのは、「なじむ」という言葉もしめすように自他の境界があいまいな状態ですから、あまり自分を形作る輪郭の存在を意識する必要がないのだけれど、これまた文字通り対人関係で「浮いた」ら、この「周囲から浮きあがってる」自分は一体何者なのか、緊急に答えを出す必要が出てきた。

つってもまあこれは分かりやすく書きすぎで、入学後の3ケ月くらいはただひたすらどう立ち振る舞えばいいのか右往左往するばかりだったっていうのがホントのとこですね。ここで内向・外向という人の性格を表す言葉が登場するわけだけれど、つまり当時のぼくはバカだったから自分の人格は圧倒的に内向性が勝っているという事実すら認識せずに、大学で圧倒的多数を占める外向人間(あるいは上手くそう偽装してる人もたくさんいるんだろうけど)の振る舞いを真似しようとしてたわけである。このことはこのブログの一番最初の記事にも表れているのだけれど、単純化していえば暗い「本当の自分」を押しかくして明るい「仮面」をかぶる以外に生き残る道はない、という硬直した考えを持っていた。
しかしまあ当然うまくいかない。内向気味の人間が明るく、軽く振舞おうとしたってムリがあるからどうしたって演技くさくなるのですね。下手な演技による明るさを出せば嫌われるのなんて考えてみりゃ当然で、あからさまに演技っぽい笑顔は、心から楽しんで「明るく」「笑って」いる人々の場を一気にウソ臭いモノに変化させてしまう効果を持つのだ。つまり、それは人間関係の潤滑油「笑顔」が突き詰めれば「嘘」「演技」であるというタブー、「笑顔の虚面性」(造語)を暴きだすことにつながる。極端な話、みんなが本気で笑い転げてる場で、それがツボに入らなかった一人が「ハッハッハッハ」なんて活字みたいなわざとらしい笑い方してたら、ふつう「ぜんぜん面白くねえよカス」というメタ・メッセージを読みとるでしょ。同じ現象が起きてるわけ。皮肉でわざとやってりゃいいですけど本人は無自覚だからタチ悪いね。

これは、内向的人間が外側の基準に無理やり自分を合わせようとすることから生じる歪みの最たる例でしょう。ぼくはまあ上記の失態を実際に犯すほど愚かじゃなかったが、外面に現れなかっただけで心情としては正直似たようなものだった(つまり外側のコードに従った集団の現象が起きるたびに「怯え」が走った。今もたまに「怒り」は走るが)し、なんかキョドってる大人しい人はきっと未だにその段階から抜けられないのだろう。「内向」「外向」という言葉のここでの定義を今更ながら説明しとくと、心理学的にいえば、本来は「内面の規範に従う」か「外側の規範に従う」かということらしい。内向的=口数少なめ、自信がない、消極的、暗い、、みたいな諸々の日常的使用法はここでは無視することとする。むろん100パーセントの外向性、100パーセントの内向性で構成されてる人間などいないだろうが、量の多いほうによって○向的人間というあてはめがなされるわけですね。外向的人間というのは、言ってみれば外側にある既存のコードに身を委ねることが自然と出来る人間であり、内向的人間は外的規範に合わせるのが下手、内的規範が確立されなければ動けない人間だ。これは、外的規範に合わせられないから発想・行動の動機として自己基準を確立するのか、すでにそれがあるから外側に合わせられないのか、「鶏が先か卵が先か」みたいなビミョーな問題ではあるが、外側のコードに怯えてる内向人間はそんなことにエネルギー使ってないで内側にもっといろんなもの貯めとけよ、と言いたい。つまり内向性そのものが悪いと捉えて「外向的にならねば!!」と力むのではなく、外向人間の勢力に気おされてその特質を上手く活かせてないのが問題だ、と捉えるほうがよっぽどスマートだとは思いませんかね。だいいち、せっかく「内」「外」という相対的な漢字が使われてるのに、そのどちらか一方の言葉だけに根暗・自信ない・自己主張できない、、みたいなネガティブなイメージがどんどん付与されるのってすげえ暴力的なかんじするんだけど。まあ確かにおれも自己主張下手だなって自分で感じるときはあるが、言わせてもらえば、お前らみたいにお手軽にアウトプット可能なテンプレ化された主張なんぞこちとら持ち合わせてないんだよ。似たようなことばっか言って何が自己主張自己表現じゃぼけ。走りすぎてますねすいません。

ぼくがそのことに気付いたのは、ちょっと情けないが他人に指摘されてからでした。つまり大学も後期に入って、大学つまんねえ、バイト見つからねえ、という溜まりに溜まった愚痴をたいしていままで喋ったことない人間にぶちまけたら、なんかウケてしまったんですね。内的基準、という話とはちょっとずれるが、あ、おれって「面白い」のか、おれの内側に詰まったこれらのモンて意外と他人にとっても価値があるんだ、という驚きがあった。だから内向的人間は、はやくそのことを自覚して、自分の内部にあるものの強度を強めたり、それをどうにか外部に表現する方向性を模索するほうが賢明だとおもうんだよね。外向的人間て外側のコードに従う人間なんだから、じゃあ彼らにこっちが作った規範に従ってもらおうじゃないの。ってのは言い過ぎか。過激すぎたし、まあ無理難題ですが、でも権力者とか組織のトップも隠れ内向人間(この文脈から言えば「隠れ」じゃないけど)が多いんじゃなかったっけか。親しくなった集団のなかでは自己主張激しい、ていうのも内向人間あるあるですね。内弁慶ってやつですか。まあ言うは易し、って奴でぼくも現状上手くいってるとは言い難いですけどもね。

結論から言っちゃえば、内向的性格は「損」なのか、について、以前どっかで「損だ」と書いちゃった気がするのだけれど、「損」というより「賭け」と言った方が正確だろう。やっぱり生きづらいことはこれはもう間違いない。「賭け」というのは、どんだけ外側のコードに惑わされすぎずに内面にストックを蓄えるか、強い規範を定立するか、そしてそれをどう上手く言葉で・行動で表現するか(なにせ既存の表現に乗っかれないから表現も困難なのだね)という難題(特に最後、、、)が待ち構えているからで、逆にいえばこれらを上手く処理すればたぶん、かなり、ザックリいえば、すごいことになる。なんだすごいことって。ぼく個人に関して言えば、インプットにばっか集中しすぎていて、個人の特性を「個人性」「社会性」に分けたばあいに前者に重きを置きすぎていて、行動の動機になる内的規範の確立がお留守でした。つまり行動力がない。行動したいのにびびってできない、というより(それも多少あるが)、そもそも行動するモチベーションがない。行動力があるのはイイコト、というのはまあ外側の基準でもあるが、これは正しいだろう、とぼくの直感が告げている。どうすりゃいいのか今あまり分かってないが、ま、とにかく経験を積むことでしょう。同語反復してる? しかし「経験、経験」とか連呼してるバカむかつくけどね。キミひょっとして経験がインフレしてないかい。


で、これから多数派たる外向人間のうちの一部のバカにキレたいのですけど、まあーむかつくねえーこいつら。根っからの外向人間、というより自らの内向性を「頑張って」「克服」(嫌な言葉だね)した奴に多いね。外的コードの土俵に上手く上がれたことがうれしくってしょうがねえの。で内向人間を「努力不足」「成長がない」って糾弾する。みっともないメンタルしてんなおい。だいたい「成長」って言葉もあんまり好きじゃない。なんでそんな捉え方が直線的なの? 「成長したい」って言葉聞くとどうしても現状の自己を否定して、あるべきひとつの目標に進んでいく感じをイメージしちゃうのだけれど、おれがへんなのか。ぼくは、自分が何なのかを考える過程で、「自分」という言葉の捉え方も考えたのだけれど、そしてこれは性格の可変性という問題にも通じる話なのだけれど、「性格は変わりうるか」ということに関しては、答えは「変わりうる」だろう。しかし「無限に」ではない。当たり前のことだが、これを当たり前と思ってない奴もいたりするんで一応。有限だが変わりうる、というのはどういうことかというと、まあ何の科学的根拠もないが、実感として、意識的に「これがおれの性格だ」と認識する「自己」の他に、潜在的な「自己」があって、これが新しい経験を通すことによって顕在化する。言いかえれば、変わるというより「自分」の引き出しが増える。で、使い分けできるようになる。もしこのイメージに「成長」って言葉をあてはめてんなら言葉のセンスを疑っちゃうわ。

単に他愛もない会話したり日常的に言葉を発することを「自己表現! 自己表現!」とかほざきだすのもこいつらです。だからお前らはポケットサイズの既存の言葉で戯れてるだけだって。それは「深い話」じゃなくて「深い風味の言葉を吐き出す儀式」です。で、こっちがその土俵に上がっていかないのを「自分に自信がないからだ」とか言ったりする。自信がないから無口(表現しない)なのだ! もういいからお前は「表現」しながら死んでくれ。あとはね、たとえば、こっちが内的規範に従って「やりたくない」ことを、「そんなの周囲は誰も気にしてないからやれよ」とかいって説得してくるのだが、「誰も」気にしなくてもこの「私」が気にするのです。っていうこの感覚は、たぶん奴らは絶対理解しないだろう。自己中、というのとは別次元の話してるんすけどね。

とはいえさっきも書いたが、ぼくはやっぱり「個人性」の方向に傾倒しすぎていたきらいがあって、やはり「行動」して「経験」を積んで、頭でっかちをなおさねばならないだろうとはおもう。「自分」のストックも正直いってかなり少ない。まあこれから自分がどういう人間になるのかはわからないが、少なくとも「人の輪に加わっていかないようなお前に未来はない」と言ってのけたぼくの某父親みたいな人には絶対ならないことをここに誓います。以上