アイドルのウンコが「世界」を内包する(木下古栗論)

中原昌也だとかカミュだとかを語るのってけっこう勇気いる。だってもうプロの文芸評論家だとか文学部の学生だとかがさんざん語りつくしてるだろうからね。でも木下古栗はちがう。中原昌也よりもおもしろいのに、ほぼだれも語ってない。もったいないことであるね。つーことでこれが世界初の木下古栗論になるでありましょう。ま、論、ていうほどアカデミックなものかけませんけど。

木下古栗とは何者か。今まで記事にした作家のなかで圧倒的に無名なのでざっと紹介してみると、1981年生まれ、2006年に「無限のしもべ」で第49回群像新人文学賞を受賞し、その後もコンスタントに作品を発表するも未だ単行本化されずにいる不遇(?)の作家である。09年に書き下ろしを集めた「ポジティブシンキングの末裔」が早川から出てようやく単行本化を果たす(群像に載ったのは未収録)。中原昌也古井由吉の影響を受けている、と言われている。

で、どんな作風なのかといえば、一言でいうと下ネタである。官能、ではない。サドとか谷崎潤一郎とかみたいな耽美的なものではなく、彼が書くのは単なる、中学生レベルのくっだらない下ネタだ。その下ネタを、豊饒な語彙を駆使して徹底的に書きまくるのである。で、下ネタを書きまくるということが一体どういう意味を持つのか、いや持たないのか、これから考察してこうというわけなのでした。

①アイドル言語の権威剥奪
ソシュール記号論てけっこう有名ですけど一応説明しときますと、ぼくの目の前に今一本のエンピツがある。エンピツ、といわれて今あなたが想起した長細くて先端のとがったモノが「シニフィエ」、そして「エ/ン/ピ/ツ」という音の連なりそのものが「シニフィアン」である。「意味」と「響き」、と言い換えることも可能であるね。で、ぼくはここで便宜的に「シニフィアン」の定義をすこし拡張させてみようと思う。つまり、ある言葉を発するときそこに付随するイメージ、言葉が表示する「概念」以外のものを勝手に「シニフィアン」と呼んじゃうことにしましょう、てわけです。

ひとがシニフィエシニフィアンの結合体である「言葉」を耳にするとき、そのどちらをより優先的に情報としてキャッチしているか。シニフィエだと思ったアナタ。ブブー、である。ぼく(たち)はそこで言われている「内容」よりもその周辺にある情報、その言葉に付随するイメージから「内容」を類推することが圧倒的に多い。

だから、言葉に酔うのは実はすげえ簡単なことなのである。上に書いたような性質をうまく利用すればいいだけだ。要はそれっぽい言葉をそれっぽく使えばいいのである。感受性豊かに見せたければ「きらきら」「幸せ」「虹」「光」みたいな明るいイメージの言葉を倒置法やら問いかけやら体言止めやらで終わらせればいい。最近の流行りは同じ文構造を繰り返して語尾を「んだ」にすることだね。繰り返し&語尾「んだ」。これで頭の弱いギャルは号泣である。

今部屋には
27枚の写真が貼られている。

二人の写真。

ヒロが撮った
美嘉の写真。


二人で笑って
二人で生きた記録。


【“君は幸せでしたか?”
と聞かれたら俺はあの頃と変わらずこう答えるだろう。
“とても幸せでした”と。
そして“今も幸せだ“と答える。
美嘉は幸せでしたか?】


美嘉は幸せでした。

あなたに会えて
幸せでした。

あなたに愛されて
幸せでした。

あなたを愛して
幸せでした。

そして私は
今も幸せです

とてもとても
幸せなのです。


ヒロ…
ヒロ…愛してる。
ずっとずっと。
ずーーっと。



青い空。
白い雲。

どこまでも続くこの空はヒロへと繋がっているよ

だからいつでもあなたはそばにいるんだ
いつも見守ってくれているんだ


もしもあの日君に出会っていなければ

こんなに苦しくて
こんなに悲しくて
こんなに切なくて
こんなに涙が溢れるような
想いはしなかったと思う。

けれど君に出会っていなければ
こんなに嬉しくて
こんなに優しくて
こんなに愛しくて
こんなに温かくて
こんなに幸せな
気持ちを知ることも出来なかったよ…。

ご存知「恋空」からの引用である。分析してみよう。ここではすべて体言止め、同じ語尾の連続、そのどちらかが用いられている。そして最後「んだ」「んだ」2連続、怒涛の「こんなに〜て」連打、そしてシメに「呼びかけ」法である。もうイチコロだね。「それっぽい言い回し・言葉」を使うだけで中身なんざなくとも文章、それも素人目には「名文」に見えるものなんか書けちゃうということに、無自覚なやつって意外にに多い。中身がないのに、そのパッケージだけで相手を圧倒できる言葉、それを今から「アイドル言語」と呼ぶことにしますが、ぼく、大学でフリーペーパーつくったりするサークルに入ってるんですけども、文章みれば、あーこいつ文を書くってことがまるでわかってねえなー、てすぐわかっちゃいます。ゴーマンな言い回しごめんなさい。でもほんと。ふだん文章に慣れしたしんでない奴に限って自分の非「キー・パースン」性(中原昌也の記事参照)にも「シニフィアンの優位」にも無自覚だからねー。なんか立派なもの書こうとやたら肩の力はいっちゃって、あげく体言止めと倒置法と「アイドル言語」のオンパレードになっちゃうの。内容は凡庸きわまりないのにやたらポエムポエムしてる。まあ書いてる本人はキモチイイイんでしょうけど。たとえばこんな。

孤独な暗闇で震える私に、あのとき君は小さな、でもやさしい灯りをそっと差し出してくれたね。
ずっとずっと、淋しかったんだ。
ずっとずっと、悲しかったんだ。
でもそれと同じくらい、いま、私の胸は君がくれたぬくもりで溢れているんだよ?

もうカンドーだね。癒されるね。コトバの力を実感するね。こりゃ間違いなく全米が泣くね。号泣だよね。誰が書いたのかというと、まあ、僕がいま即興で書いたんですけど(笑) 公式にのっとれば(ほとんど)誰でもこんなもんペロッとかけちゃうのである。しかしまあ、ポエミックなアイドル言語を茶化すのは簡単だし、すこしの知性さえあればこんなもののマガイモノ性にはすぐに気付くのだ。シニフィアンの定義を、さらに拡張してみよう。ここではシニフィアンの定義に、言葉の音、そこに伴うイメージのほか、それが発せられたときの「文脈」発信者の「表情」「社会的地位」さらには背後に流れる「音楽」まで含めることとする。言語学的にはもっといいタームがあんのかもしれないけどそんなん知らない。ちょっと脇道に逸れますがシニフィエシニフィアンをあえて極端に乖離させ、それを笑いに変える、ということをやっている芸人がいます。この人。

バカリズムの「贈るほどでもない言葉」。感傷的な音楽、表情を背景に繰り出される瑣末な事柄。ぼくは爆笑しました。この芸人、基本的にこういうネタが多い。最初はベタで凡庸な設定をあえて採用するものの、瑣末な細部に固執した挙句、通常想定される「流れ」からどんどん逸脱していく、といったような。ちなみに、このバカリズムという芸名も「アフォリズム=格言、金言」に由来するんじゃないかと思うんですけどどうでしょう。
しかしまあさっきも書いたように感傷的アイドル言語を茶化すのはわりと頻繁にやられていて、茶化されてるのにも気づかずに相変わらずアイドル言語とうちゃうちゃ戯れているのは一部の馬鹿だけだろうとは思うわけですが、もうひとつ厄介なものがある。知的アイドル言語だ。これが曲者である。「近代」「○○主義」「カント」「ニーチェ」「蓋然性」「〜において」などなど。しかもこれらのタームを使わないと語りえないことも確かに存在しうる(……?)から厄介だ。知的アイドル言語が出てくるとギョッとする。やべえ、おれ頭悪いからわかんねえ、と委縮する。そこに内容が伴っているのか否か、判断するにはそれ相応の知性が必要となってくる。たとえなんとなくうさんくせえなあ、と思ったとしても、自分に知性がないだけかもわからないから、バカにされたくないから口にだせない。嘘だと思うなら友達とすこし真剣な話題に移ったときに、上にあるような言葉をちょいちょい差しはさんでみましょう。シニフィアンは場を背負うからね。途端にみんな神妙な顔つきになって訊き始めます。いやマジで。「ふだんはバカやってるけど実は知的なワタシ☆」の発動である。なんなら「人生」という言葉でもいいけどね。もれなく「深い」という一言がいただけますから。いやホントに。
ところがこうした知的アイドル言語を使って下ネタを語ることによって、その言葉たちの権威を引っぺがし、相対化する作家が表われた。木下古栗である。

1.私は、慎みと抑制を基調とする性的自戒を誠実に堅持し、性欲の発動たる勃起と、律動による快感又は精液の射出は、性欲を解消する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、漫画写真映像その他の猥褻物は、これを保持しない。私の交接権は、これを認めない。

「受粉」より引用。憲法9条のパロディである。あるいは、「自分――抱いてやりたい」(ポジティブシンキングの末裔)にて、便秘から解放されたときの体験を肛門自らが語りだすシーンではこんな調子だ。

一方、俺は溜まりに溜まっていたものをとうとう吐き出して空っぽになった、言わば空虚の充実感を覚え、その尽き果てた感覚の乾いた甘みに覚醒した意識で、何もない部屋に差し込む白い光に目も眩むがごとく陶然と穴を解放したまま粘膜を震わせていた。理性の我慢も、終わりなき心身の苦悶も、感傷も懊悩も削げ落ちた俺は便秘を吹き飛ばして本能の喜びを大爆発させ、生理的欲求の赴くままに次から次へと流出を繰り返した。水を得た魚のように脱糞を連発した。まさに本領発揮だ。下劣なショックで食欲を失ったこいつがろくに食物も摂取しなくなると、所構わずありったけのガスを不意打ちで噴出して爆音を奏で、文字通り汚い手段で緊急の補給を訴えた。俺はもはや穴ではなくその空洞、そこに疼きそこを通るあらゆる現象それ自体、つまり便意と排泄そのものになり、遂にはたとえ胃にも腸にも内容物が一切なくとも常時便意を排泄欲求を生じさせる特殊能力を手に入れた。肛門に新境地を開いたんだ。

見事、の一言です。6ページ近くこの調子で肛門とその持ち主との格闘が饒舌に語られる。語彙の豊富さが知性の証明だと思っているボキャブラリーフェチの連中はこれを読んで何を思うのか。くだらない、と切り捨てるのか。まあ、確かにくだらない。作者も無論くだらないと知ってこれを書いているだろう。しかし問題は、こういった硬質で知的な語り口でこれほどまで馬鹿げた事柄を書きえてしまう、その事実をいかに捉えるかである。普段ぼく(たち)が接する言語というのは、「シニフィエ」と「シニフィアン」が密接に結びついている。この「結びついている」ことが当たり前のものとなりすぎて、その恣意性を疑うことすらなくなっているから、格調高い(ということになってる)「シニフィアン」だけを受け取って勝手に「深い」「シニフィエ」を想定するという事態が発生するんじゃないの。だから木下古栗はここであえて情報価値として最低の「シニフィエ」(=下ネタ)と格調の高い(とされる)「シニフィアン」(=憲法の条文etc)を強引に組み合わせ、両者の乖離を最大級に拡大させることで、言葉は単に言葉でしかないこと、その恣意性を暴きだすのだ。語ること、語られることの本質はどこにあるのか、あるいはないのかという問題を、木下古栗は読み手に突き付ける。
ここで木下古栗が試みているのは、中原昌也が行った「紋切り型の多用」「物語の異物化」からさらに一歩進化(深化?)したものだ。アイドル言語の権威剥奪。ここで木下古栗は言葉のひとつひとつを相手取っている。無理やり例えを出すと、中原昌也は最初にアイドル(=形骸化した権威)の隣にウンコを並べ、次にアイドルにウンコをこすりつけることで、アイドルの地位を相対的に貶めようと試みた。次のステップは何か。要するに、アイドル自身にウンコさせてしまうことである。木下古栗は言い回しのみではなく単語レベルでそこにこびり付く権威、イメージをはぎ取ってしまうことに成功したのだ。
そしてもうひとつ重要な点が、木下古栗の文章にあるその音楽性である。句読点の位置まで完璧に計算されつくしているから、文章が、つるつると快く頭の中に入ってくる。つまり、中原昌也ニートピア2010のなかで目指した言語リズムの獲得を、「アイドル言語の権威剥奪」と同時進行で成し遂げてしまったというわけだ。


木下古栗というと必ず中原昌也との比較で語られるので、ここで一旦あえて前田司郎との関連性を指摘しておきたい。前田司郎。2009年に三島賞をとったり、ちょくちょく文学賞の候補にあがってくる人ですね。演劇出身らしいのですけども。で、この前田司郎がインタビューの中でこんなことを言っている。

――私は、前田さんの小説の中で「ウンコに代わる次世代排泄物ファナモ」(『恋愛の解体と北区の滅亡』収録作)が一番好きです。トレンディードラマを地でいくオシャレな男・タクヤが、ウンコを「次世代排泄物ファナモ」に代えるに至る事件が描かれているわけですが、とにかく笑いました。皆が思っている恥ずかしい感じを代弁してくれた感じでした。


前田: 格好つけたい気持ちというのは、誰にでもあると思います。僕だってあります。でも、突き詰めてやってしまうと絶対にボロが出る。颯爽とオシャレな人だってウンコはするし、カップやきそばの湯切りをしくじって「熱ッ!」となることもあるはずです。僕は、そういう姿を隠すほうが恥ずかしいと思うんですよね。


――前田さんは、そういう恥ずかしさを、否定ではなく愛をもって描きますよね。


前田: オシャレ感そのものは否定しません。ただし、作者の都合のために綺麗にオシャレにまとめてしまうことは、ダメだと思うんです。例えば、映画「世界の中心で、愛をさけぶ」で一番盛り上がる「助けてくださ〜い!」のシーン。あんなこと、あり得ない。あんなに自分たちに陶酔できるはずがない。倒れるときに顔面を打っちゃったり、涎が出たり失禁したりすると思う。メイクだってしていないはずです。場所も空港なんだから、近くで不倫カップルがいちゃいちゃしていたり、喧嘩している家族がいたり、「あらちょっとアンタ大丈夫?」とか言って寄ってくるおばちゃん集団がいたりするかもしれない。

ぼくが初めて読んだ前田作品である「恋愛の解体と北区の滅亡」とそのカップリング「ウンコに代わる次世代排泄物ファナモ」は、作者自身が語るように、作者の手によってキレイに整えられた「世界の中心〜」のような作品世界へのアンチテーゼとして、物語の流れからはみ出る「余計なモノ」、現実の細部に宿る「みみっちさ」「ダサさ」の総体として出来あがっている。「みみっちさ」の象徴としてあるのがウンコというわけです。こう考えるとバカリズムともすげえ似てるな。
「ウンコに代わる〜」は、超絶ええかっこしい男のタクヤが彼女とのロマンチックなデート中、ウンコをもらしてしまい、その後(二度と同じ過ちを犯さぬよう)ウンコまでをもオシャレに変えてしまう、という話だ。解釈は簡単にできるね。要するにここでは、タクヤの意図した「物語」がウンコ=物語からはみ出た「現実」によって破壊される瞬間を描いている。
あまりにストーレートでわかりやすいので面白いもののめちゃめちゃ好きな作品というわけじゃありませんが、問題は「恋愛の解体〜」である。宇宙人による攻撃によって今晩日本は滅亡するのではないか、という噂がまことしやかに囁かれている世界で、「ぼく」がコンビニの順番待ちをマッチョな男に抜かされたことをキッカケに殺意をやどらせ、殺人を実行することを思いつくが、何をどう間違えたのか最終的にSMクラブに行きつき、そこで「女王様」と一緒に宇宙人による北区攻撃の様子をテレビで見る、という話である。梗概説明しても全くわけわかんねえな(笑) コンビニでの事件からSMクラブでテレビを見るまでの数時間が切れ目なく語られるこの小説は、その表現形式自体が物語(=断片の作為的つなぎ合わせ)への反抗となっているわけですが、作品内で繰り返されるのもそういった「大規模な/ドラマチックな」物語的事象と「みみっちく/一貫性の欠いた」リアルとの比較対照である。これほど「リアル」な小説、ぼくは見たことがない。たとえば宇宙人の登場をテレビで見るシーンにて。

 サンシャイン60の屋上にUFOが乗っかっている。宇宙人が出てくるまでの間、カメラはUFOを撮っていた。やっぱり銀色で鈍い光を放っているが、良く見ると、所々ネジのようなものでとめてある。アップで写すと、虫の死体がベチャベチャと結構な数、張り付いていて汚い。(中略)
 ややあってから、足が見えた。宇宙人の足だ。薄い緑の布のような色をした足だ。ゆっくりハシゴを降りる。危なっかしい。足で段を探り探り降りてくるから、いつ足を踏み外すんじゃないかと、見ててハラハラする。それでも僕は初めてパンダを見たときくらいは感動したんだと思う。もうパンダを見たときの気持ちは忘れてしまったが。 
 宇宙人がサンシャイン60の屋上に降り立った。小泉首相のアップになる。首相はいつになく緊張した面持ちであった。今、歴史が確実に作られているのだ。などと、僕は出来るだけ自分を盛り上げてみたが、なんだかそんなたいしたことには思えない。ちっちゃい緑色の全裸の生き物と小泉首相が結構な距離を隔てて対面しているだけなのだ。

宇宙人のショボさ加減、期待はずれ感が素晴らしい。「UFOにへばりつく虫の死骸」や「恐る恐るハシゴを降りる宇宙人」なんて、ハリウッド映画的な貧困な想像力では絶対思いつかない描写だろう。ここで「僕」は、宇宙人が出現するという大規模な事件に対し、上手く距離をつかめずにいる自分を発見する。「歴史的瞬間」も所詮一個の「風景」にすぎないことに、「僕」は驚く。宇宙人にまつわるイメージ(知性、冷酷さ、神秘性)に「ハシゴ」「虫の死骸」という要素があまりにチグハグに思えたからだろう。宇宙人との遭遇という「物語」が現実に突き破られた瞬間だ。ここで描かれているチグハグ感、アンバランスさというのは、でも実はぼく(たち)にとって非常に身近な感覚ではないか。勘違いしないでほしいのだが、ぼくがここで言わんとしているのは「理想と現実のギャップ」とかそういう類のものではない。そういう「現実は残酷だよ」的なベクトルで安直なニヒリズムを語りたいわけじゃなくて、もっとこう、なんだろ、「現実」をもっと人間の想像力では容易に捉え難い不定形でぐにゃぐにゃしたもの、いびつなものとして語ろうとしているわけです。
たとえば、憧れの野球選手が歩いているのを見て、「わ、なんかフツーのおっさんだ」と驚くあの感覚。もちろん「フツーのおっさん」に決まっている。そんなことわかっている。しかしなんか驚きたくなってしまう。
たとえば、アイドルだって人間であるからにはウンコする。あのかわいい上戸彩も、宮崎あおいも、前田敦子も個室にこもって太いうんちを尻の穴からひり出すのである。それもわかっている。が、それを「知識」としてでなく「実感」としてわかっている人間がどれほどいるのか。
あるいは、ぼくの所属するサークルで雑誌について会議した時に、たまたま、「森ガール」についての記事と「紛争地帯」についての記事が並ぶのは不自然だよね、という話になった。もちろん気持ちは非常によくわかるのですけども、きっとこの発言をしたひとは「アイドルはウンコしない」と言い張るタイプの人間なのだろうなと推測できる。「森ガール」も「紛争」も「SEX」も「涙の別れ」も「脱糞」も「爆笑コント」も同時に起こりうるのが「世界」の姿なのである。「アイドル」が「ウンコ」するのが「世界」の本質なのである。「アイドル」と「ウンコ」を分離するのは、「森ガール」と「紛争」を分離するのは、人間の恣意にすぎない。人がこしらえた物語の中では、アイドルがウンコする描写は出てこないだろうけども。その意味で、アイドルのウンコは人間が普段安住している「物語」を破壊し、「世界」の生の姿をむき出しにするだろう。

さて。ここで話を元に戻します。木下古栗は、さっき書いたようにほぼ全編にわたって「アイドル」化された言語たちをつかって、下ネタを語る。木下古栗を読んだとき感じる面白さはこのチグハグ感から(も)来るところが大きいわけですけど、それはまさに木下文学がひとつの「アイドルのウンコ」として機能しているからではないか。「恋愛の解体〜」の中ではいまだ「アイドルのウンコ」は作品内の要素として登場するのみだが、木下古栗の作品はそれそのものが「アイドルのウンコ」として、「世界」を内包しているのである。すげえー

②唯一風景と無限言語
「恋愛の解体〜」は、始まりから終わりまでずっと「僕」の自意識だだ漏れ状態で語られる。考えていることは「愛とは何か」みたいにやたら遠大で哲学的だったりするのだが、その思考もあくまで「僕」の体から発せられたものであり、だからすれ違った女のひとがノーブラであると気づくと直ぐに思索を中断して透け乳首の確認を急いだりする。描かれるのはあくまで身体から半径数メートルの出来事、要するに「僕」が実感を持って知覚できる範囲のみである。この狭い実感世界と「北区滅亡」という情報世界との対比自体が面白いのだけれど、一番最後のシーンで、この二つの世界がついに並列される(交わることはない)。
どういうことかというと、「僕」は「愛」の本質を知るためにわざわざSMクラブへと足を運ぶのだが、結局SMプレイに気分がのらず、フツーに「女王様」とセックスする流れになる。が、エナメル服を脱がそうとしたらマン毛がチャックに引っかかってしまい、なんとかチャックをおろそうと試みているときに、テレビ中継で宇宙人の攻撃が映し出される。北区が宇宙人によって攻撃されている。結局日本そのものは滅ぼされず、東京の一部、それもとりわけ地味な(すいません)北区が攻撃されるに留まるというのもまたすげえリアルなのだが、それにしたって大事件にもちろん変わりないわけです。そこで「僕」と「女王様」はどうするか。どうもしないのだ。「わー攻撃されてるね」みたいなことを言いながら、北区滅亡の様子とマン毛を交互に見ている。そこで小説は幕を閉じる。

そもそも民主主義の理想とは、自分たちの所属する共同体に関わる政治的事柄について、個々人が自分の頭でよく考え、それぞれの意見を形成し、互いに議論することで(意見をぶつけあって)よりよい結論を出して共同体の命運を決することだった。情報世界のサイズと実感世界のサイズが合致してたらそれで良かったでしょう。遠い昔の村社会とかね。ところが、もういまやグローバル社会で情報社会ですから、情報世界がどんどんどんどん肥大してきているのだ。実感世界もまた同時進行で肥大してくれればまあ話は単純なのですが、残念ながら人間の実感範囲は相変わらず周囲数メートルしかない。そして、悲しいことにひとは実感世界の中でしか生きられない。当たり前だね。この「身体」から人間は逃れられないのだ。共同体の規模が大きくなり、情報世界のサイズが実感世界のそれを超えてくると、共同体の政治的事柄に関する情報を出来るだけ個々人が「実感」を持てるよう伝達する役割を、マスコミが担うこととなる。憲法の中でも「表現の自由」やそこにある「知る権利」がとりわけ重要視される理由はそこにあるわけですけど、でも、果たして本当にマスコミはきちんと機能してるのか。

いや別にベタなマスコミ批判がしたいわけじゃないけど。でも例えば地球温暖化、さんまが司会だったかな、年末の番組で地球温暖化の「嘘」が暴かれているのを見たときには衝撃受けましたよ。なんていうとおれのリテラシーのなさが露呈しちゃう? しかしぼくは別にこの場で、温暖化なんて嘘いいやがって、ふざけんな、と憤りたいわけでは全くない。というか憤っちゃったらホンモノのバカである。地球温暖化が本当に「嘘」なのかもぼくには判断つかない。つまりぼくは、「温暖化」に関する膨大な情報に対して、そのとき圧倒的に無力であったわけです。
ぼくがここで言いたいのは、情報世界の不可疑性、ということだ。不可疑性でぐぐると、どうもこれ現象学のタームらしく、読んでみてもなんか難しくてよくわかんなかったのですが(笑)、この専門用語とは別の意味で今はこの言葉をとらえてほしい。そんなムツカシイ意味でこの言葉を使ってるわけじゃない。要するに実感の外にある情報を、「疑おうにも、疑いえない」ということである。疑いえない、は言い過ぎかもわからないが、しかし例えば物理化学がもう大嫌いなガチガチの文系のぼくにとって、温暖化問題が一体どこまで「本当」でどこまで「嘘」なのかもう全然わかんないのである。正直何を信じていいのか全くわからない。もちろん物理化学を勉強して文献をしらべまくれば知識もついてきて段々判断力がついてくるのかもわからないけど、しかし、共同体の政治的事柄はなにも温暖化だけじゃないのである。尖閣諸島って一体誰のもんなのか。南京大虐殺では結局何人殺されたのか。ゆがんだ歴史観を植えつけられて「尖閣諸島を返せ!」と暴動を起こしてる中国人を見てぼくは「ばーか」とせせら笑うわけですが、同時に、一抹の不安も覚えるわけだ。騙されてんのはもしかするとぼく(ら)の方だったりして、と。そしてそれを確認・実感する術は(究極的には)ない(ホットな問題なので誤読する馬鹿を想定して一応言っときますが、あくまで「情報世界の不可疑性」、「可能性」の話をしてるのね。わかってね)。

これって要するに、人は実感世界にしか生きられない、というのとほぼ同義なわけですよ。つまりマスコミは結構いいかげんな情報操作をしている(らしい、あくまでね)のですが、仮にマスコミが誠実に、(出来る限り)客観的に情報をわれわれ個々人に提示してくれているにしても、なんか根本的に信用しきれないような感覚は残るだろう。要するに、単純に言えば、「他人事」なのである。もう情報世界が肥大しすぎたあまり一個人が実感するキャパを超えちゃっていて、ぼく(たち)は、もはやそれをチャックに引っかかったマン毛と同程度の重みとしてしか受け止められないのである。

ここで民主主義の理想が崩れ始める。もちろん、勉強を重ねて情報収集に徹すればあらゆる社会問題に「自分の意見」を持つこともできましょう。しかし、根源的な感覚では「他人事」な社会問題に関して、民主主義の理想などというオーギョーな理念のために時間を割こうなんて気には怠惰なぼく(たち)は到底なりませんし、それに、ほぼニート大学生のぼくと違って社会人のひとたちは仕事で大忙しなのである。仕事、家族、恋愛、などなど実感世界の問題に対処するのに精一杯で、温暖化なんぞ知るか、って感じなのである。しかも、ここだけの話、民主主義が前提にしてる「個々人」てけっこう馬鹿ですしね。ははは。シニフィアンの優位にも無自覚だ。社会にしゃべらされているだけの可能性もある。さらに追い詰めると、詳しくは「人それぞれ」の記事で書きましたけど、仮に個人が自分なりの意見を持ちえたとして、議論なんてのは基本的に不可能なものなのですよ。個人の意見ていうのは突き詰めれば結局「感覚」「好み」の問題に帰着するのですけども、その「なんとなく」の感じを言語化するのは困難極まる作業なわけです。だから、議論を突き詰めれば突き詰めるほど、「なんとなく」の部分で食い違っている他者の、いわば「他者性」が身をもって実感されてくるのだ。

なぜ、俺の言うことがこれほどまでに通じないのか?なぜ、こいつの言うことはここまで理解しがたいのか?とまとめるとこの二つの感覚が議論を通じて立ち上がってくる。議論を「他者と意見交換するためのもの」と考えるのは非常にオメデタイ発想でして、本当は、議論とは「絶対的な真実」としてほぼ固まりかけていた「個人的な意見」が、他者の他者性に直面することで相対化され、再構築を迫られる徹底して内省的な作業なのである。

実感世界にしか生きられぬ人間は、そこで、みずからの経験(実感世界で生きた産物)をもとに人生を語ろうとする。が、これについてはさんざんこのブログに書いてきたので簡単にすましますけど、非常に困難なのである。つまり「人生論」には「人それぞれ」の部分と「人それぞれ」じゃない部分があり、もっといえば「人それぞれ」を一般性が緩やかに囲っている。卑近な例で言うと、たとえば美の基準ね。平安時代の美女が現代の感性からすると救いがたくブスであることからわかるように、美もまた文化的に形成されたものなのであるが、しかしだからといって美が完全に固定されているわけじゃない。綾瀬はるかが好きか、宮崎あおいか、ガッキーか、佐々木希かは「人それぞれ」の好みの問題だ。その中で一体何を語るのか。今おまえが語っていることは、単に「社会にしゃべらされている」だけではないのか。すでに考えられ/表現されつくした事柄ではないのか。あるいは逆に、特殊な経験を一般化して語っているだけではないのか。つってね。これらの障害をくぐりぬけたとしても、情報の受け手は(基本的に)馬鹿だから結論だけ受け取って、結果、その言葉はあっという間に形骸化する。その中で一体何を発信しうるのか。

何にも発信できないのである(笑) 少なくとも木下古栗は、もう何か価値あるげな言葉を吐くことを完璧に放棄してしまった。「下ネタ」を徹底してエネルギッシュに書きまくるという木下古栗の行為は、それ自体で言葉に関するもろもろの「信頼しがたさ」に無自覚なままの人間たちに対する優れた批評となる。下ネタは、なぜ「くだらない」のか? それは実感世界内部の、誰もが認識している普遍的事柄だからである。あからさまに「表現されるに値しない」ものを自覚的に、過剰に書くことは、つきつめれば「表現されるに値しない」ものを、表現するに値すると信じこんで自己顕示欲に任せて垂れ流す行為のアンチテーゼとして働くだろう。それは木下古栗なりの、非「キー・パースン性」の自覚である。彼は中原みたく「書きたくない」「書けない」とすら書かない。「書けない」「書くことがない」と「書く」のではなく「表現」する、それも中原みたくユーウツになるのではなく、元気よく表現しまくる木下古栗は、作品へ向かう態度として既に完全に分裂しているのであり、だからぼくはここで、重松清的「逆接の思考」を見出だしたいのである。表現することが何にもない、けれど、書く、「自覚的に」くだらないことをエネルギッシュに書きまくる木下文学とは、単なるたんぱく質の塊でないことを証明するため言葉を吐かずにはいられない人間の実存に対する、なかばヤケクソ気味の肯定なのである。

「ほあっ……」
 しかし豊丸の舌先が追い打ちをかけてきて、栄治はまたしても悩ましげに喘いでしまい、股間を突き出すだけでなく背を弓なりに反らせながら、頭の天辺まで細やかな震えを走らせた。その隙を突いてどこからともなくいそいそと駆け寄ってきた十歳にも満たぬ少年が、まだ前側は辛うじて覆っていた栄治のパンツを無情にもずり下ろしたので、とうとうパンツは足首にまで降りてきてしまった。勿論、そうする間も疣を舐める愛撫はいささかも疎かにされず、絶妙な舌遣いで執拗に攻められる栄治はもう諦めて、おとなしく快楽に身を任せることにした。体は正直だった。いやしかし、いくら肉体の快楽を覚えようとも、潔癖な精神だけはどうしてもこんな惨状に耐えられない、精神衛生上許せない。
「汚らしい真似はよせと言っただろうが!」
 意志の力を振り絞って振り向きざま猛烈な怒声を浴びせかけた。すると驚くべきことに、見えない平手に張られたかのように突然、頬を打つ音がして豊丸の頬が勢いよく真横に背けられた。一瞬、何が起こったのか誰一人として認識できなかったが、よくよく目を凝らせば単に体ごと向き直った栄治の、股間の隆々たる突起が立派な凶器と化して豊丸の頬をしたたか痛打しただけだった。(淫震度8)

……。
もうこのバカげたシーン読むと、お前の解釈ほんとかよ、と自問したくなりますね。

中原昌也は、かつて自作について「勘違いしたバカが褒めているだけだ」と言っていた気がするけれど、たぶん(というかまちがいなく)ぼくもまた「勘違いしたバカ」である。でも言い訳させてもらえば、文藝評論のほとんどは、もっといえば「社会」やら「人生」やらについてのもっともらしい理論は、そのほとんどは「勘違い」ではないのか。世界はおそらく言葉として捉えるにはあまりにも複雑かつ単純かつ滑稽に、確固たる「風景」としてただ唯一無意味に存在していて、言葉という膜に覆われて暮らすぼく(ら)がそれを無限に解釈し、無限の言葉を生みだしているにすぎないんじゃないか。結果、思考を突き詰めると言葉は意味の不在の中心をぐるぐる、ぐるぐる、空転する。ぼくがこれまで長々書いてきたような「意味」を作者が意図していたかといえば間違いなくしていない。「意味」を生みだしたのは作者ではなく、読者であるぼく自身である。前回の記事で、アフォリズムは「結論」だけを提示するもの、小説は「過程」を提示するもの、と書きましたけども、本当は、優れた小説というのは「過程」すらも示さない。それを読んだ者のなかに眠っている「無意識」、いまだ言語化(「過程」化)されていない部分に働きかけるのが小説として価値の高いものであり、「無意識」をくすぐられた読者は、そこで初めて自分の「無意識」に名前を与えて言語としてそれを掘り起こす作業にとりかかる。「過程」から「結論」まで作り上げていく。「意識化」する。あるいはしない。表面的に読んでいるだけではまったく意味がわからない、あるいは無意味に見えるのに、「なんとなく」いい、そういう感覚を喚起させる小説を書くためには、作者もまた己の無意識を駆使せねばならない。言葉にした途端それは陳腐化するだろう。作品を通じての読者と作者の「無意識」の響きあい、それこそが小説に限らず芸術の、本来的な価値なんじゃないかという気がする。

「汚らしい真似はよせと言っただろうが!」
 意志の力を振り絞って振り向きざま猛烈な怒声を浴びせかけた。すると驚くべきことに、見えない平手に張られたかのように突然、頬を打つ音がして豊丸の頬が勢いよく真横に背けられた。一瞬、何が起こったのか誰一人として認識できなかったが、よくよく目を凝らせば単に体ごと向き直った栄治の、股間の隆々たる突起が立派な凶器と化して豊丸の頬をしたたか痛打しただけだった。

もうだめだw ということで今まで書いたこと全部忘れてくれてかまいません。結局真理なんてものは身体で学ぶしかないんだろう。や、またもっともらしいこと言ってるな。でもまあ、これだけはどうしても言っておきたい。木下古栗は、理屈ぬきに、もう、めちゃめちゃ面白い。YES

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