内向性につき補足を少々、その他恋愛etc

おれタイトルつけるの下手か。語呂はいいね。何を書きたいかといえばまた内向性、内的基準についてである。

やはり、予想通り、というべきなのだろうが、恋愛市場への参入を果たして自分の内向性の強さというか、強引さを確認した。それがどこまでうまく機能したかは微妙で、はっきりいっちゃえば敗色濃厚、というか長期戦になりそうなのだが、それは今回は高い壁を目標にしすぎた感があるからであって、恋愛全般に関してはこの押しの強さは有利に働きうるんじゃないのかね、と見ている。まあ恋愛・異性全般に関しては消極的、気に入った子にだけ自分のペースでずんずん向かっていく、ていうのは結局僕の物事一般への向き合い方の傾向をそのまま恋愛にトレースしただけ、という感じはなくはない。やはりその意味で「確認」である。

僕が恋愛市場に参入した(この言い方が一番シックリくる)、と聞くと友達はみんな「お前が、、、、!」と驚くのだけれど、そしてその反応もまあ予想通りではあるのだが、なぜ彼らが驚くのかといえばやはり「恋愛」という言葉にどうしても甘くてウェットなイメージが付きまとうからだろう。だから辛口ドライなパブリックイメージの僕とチグハグ感が出て驚く。しかしアイドルだってウンコするのだからこの僕が甘ったるい恋愛感情を抱いたってこの「現実」にはなんの不思議もないはずなのだが、今回はそれはおいといて、そもそも恋愛はホントに「甘くて」「ウェット」なものなのかね。ウェットではあるか。しかし甘い、は嘘、というか少なくとも恋愛感情てJpopで甘いメロディとともに歌われるような美しいもんじゃない、というのが今回僕の、てまだ終わったわけじゃないが、抱いた感想である。どっちかというとなんか脳みそが固執しちゃってると表現する方が適切? こう書くとぜんぜん美しくないね。ぼくは美しいものだけを肯定するわけじゃないからべつに美しくなくたっていいのですけどね。

言うまでもないことだが、この世で最も大切なのは「自分」である。当たり前だ。自尊感情を傷つける相手を好きになる奴なんていないし、親だって自分の自尊心を子供にズタボロにされたら堪らないだろう。以前、ペケポンという番組でタカアンドトシのタカと柳原加奈子いづれかが罰ゲームを受ける、となったときに、ふたりが最近イイ感じであることをネタに周囲から「加奈子を守ってやれよ」と煽られたタカが、「おれは確かにコイツのことが好きだけど、、、自分が一番好きだ!!!!」と叫んだのを見て僕は爆笑しながら一種の感動を覚えたのを今でも記憶している。笑いは、社会性のベールに覆われた「個」が剥き出しにされる瞬間を過剰に演出することで生まれるが、これはその最たる例と言っていいんじゃないか。仏教でも、自分をまず愛し、そして他人もまた彼ら自身の「自分」を愛しているのだと実感することを説いていて、だからこの考えは格別ヘンなものではないはずなのだが、あらゆる行為を「自分」に帰結して解釈することは可能である。自己承認欲求。自己実現

可能どころか僕なんかはそういう解釈でモノを見ることで、なんというか、安心する。他人に親切にするのだって結局「他人に親切な自分」が好きなのである。早い話、親切であることを奨励するなら「思いやりを持とう」なんていうバカ正直なフレーズを掲げてないで、他人を思いやる姿カッコイイみたいなイメージを作り出して体にしみ込ませたほうがヒトは自発的にそれをやるし効率的なんじゃないですかね。一つの例えにすぎないですけどね。わが身を粉にしてボランティアに励むのもそういう自分が好きだから。子供が川で溺れるのを、自分の命を犠牲にして助ける大人、そういう人がこの世には確かに存在するようなのだが、彼らはきっと「子供を見捨ててのうのうと生き続ける自分」という自己イメージに耐えがたさを感じたのだろう。

こういう捉え方を身も蓋もない、といって嫌うひともたくさんいそうだが、なんで身と蓋が必要なのかわからない。自分の命を犠牲に誰かを救う彼らは、「自分の命より他者を優先した」というより、「自分の命より内的規範を優先した」のだと解釈したほうが、少なくとも僕は安心して尊敬できる。変な言い方だな。要するに「自分より他人を優先した」なんて言われてもなんか神々しすぎてピンとこないのである。聖人か。つっこんじゃった。正直いきおいで凄い例を出しすぎてしまった感はあるけれど、命を投げ出せとまでは言わないまでも、自分の定立した内的規範に忠実に、自分の在り方をその都度律しながら生きることができれば素晴らしいね、ということをまあいいたいわけです。つまり、どうせこの「自分」はこの肉体から逃れられず、「自分」以外を生きることなんて不可能なのだから、徹底してこの「自分」という観念を中心に据えながら社会を上手く生きることはできないのかね、とぼくは考えたのでした。それでキーワードになるのが、内的世界の外的反映、というものだ。

こういうこと書くとなんか安い自己啓発みたいになりそうでちょっと嫌なのだが、ぼくはここ半年くらい精神的な強さを身につけたいと考えていて、実際以前に比べればかなりタフになったなという実感もある。なぜタフになったかといえば、前にも書いたように大学入学後にかなりキツく孤独を味わったからに他ならない。どうも周囲に印象を聞いても当時のぼくは平然としているように見えたらしいので不思議なのだが、ぼくからすればあの時期は20年生きたなかで最低であった。まあ世の中にはもっとツラい思いをしているひともいるのだぞ、といわれりゃそうなんでしょうね、と返すしかないが、(自意識過剰なのだろうけど)楽しそうにしている周囲からポツンと取り残され、ことごとく無視されてるようなあの感じ、が延々続く日々はほんとにやばかった。地味にボディーブローを食らい続ける感覚だ。で、前回の記事でも書いたがまわりに「お前面白いぞ」と何度か指摘されて、自分の内部にあるユーモア的感性を杖に立ちあがった、というのがまあ一連の流れなのだが、何をいいたいのかといえば結局のところ、内的な世界を充実させてその中に自分を支える杖を見つけ出すことが、本来的な意味での「強さ」の獲得につながるのじゃないか、ということだ。

正確にいえば「強さ」の獲得の仕方としては、さっくり二つにわけて①実際的な知識・知恵の習得、②内的世界の充実、があるように思える。前者はいわゆる生活能力というか、生きていくために必要な一般的もしくは専門的知識で、これは年齢とともに自然に身に付くものじゃないかね、とみている。まあぼくのそれは結構おそまつだったりするのだが、まあそれは置いておいて、もっと根本的なところで自分を支える②の話だ。

もちろん完全無欠な「強さ」を身につけることなど不可能で、自分一個で自分を100パーセント肯定できる人間がいたらそれはもう悟り開いちゃってるといっていいとおもうのだが、やはりヒトは他人との関係・他人からの承認なしに生きることはできないだろう。しかしそのことはじゅうぶんに認めた上で、それでも自己を承認するのはあくまでこの自分であって、他者からの承認は、あくまで最終確認にすぎないという覚悟でくらすことはできないか。なんか周囲みてると多くの人はこの順序が反転してるように見えるのだね。これだけ多くの他者に承認されてる、だから「私」はすごいのだ、みたいな。しかし内的世界の充実による自己承認→他者承認という順番での自己肯定だって容易ではないが不可能でもないはずで、このプロセスを経て、あくまで「自分」を起点に社会に関わることをぼくはここで内的世界の外的反映、とよびたいわけである。

結局、ああこのコミュニティにいるときは素の自分でいられるわあ、という他者とのコミュニケーションにおけるよろこびみたいなものは、おのおのの内的世界が外的にうまく反映されたことの結果によるものなんじゃないでしょうかね。まあこの内的世界、にもおそらく①内的感性と②内的規範のふたつの領域があるように思えるのだが、世間でネガティブなイメージを付与された内向的人間の復権のために書くけれど、ぼくらはおそらく「外向的人間」よりも充実した内的世界を持っていて、そしてそれゆえに外部への反映が困難となっているのじゃないのか。

つまり外向的な人間は、内的世界と外的世界との不一致が少ない人々であるのだから、この内的世界の外的反映、といわれてもイマイチぴんとこないのではないか。集団は、基本的にこの内的世界と外的世界の不一致率の少ない人々により構成されるもので、だからこそ外的世界と一致しているかのように偽装するのが出来なかった頃のぼくは集団を嫌悪していたわけである。まあ今でも好きではないが。しかし、集団は、実はぼくが思い込んでいたほど外的基準によりガチガチに固められたものではないんじゃないか、というふうに最近は思い始めている。

簡単に言っちゃえば、最終的に自分の内的世界を反映するには、最初、外部に受け入れてもらうための「礼」、要するに手続きが必要であるということだ。初対面やそれに近い形の社交の場では、多くの人はみんな自分の自尊心が傷つけられるのではないかという不安を多かれ少なかれ抱えている。承認の形には、まず①自尊心が確保されること②内的世界が共感されること、の二つがあるようだが、「礼」(挨拶とか笑顔とかね)はこの①の段階を手っ取り早く確保するための手段なわけだね。さっきも書いたが、ひとは自分の自尊心を傷つける者を絶対に受け入れない。笑顔のなさ、挨拶のなさで自尊心が傷付いちゃうのかい、とつっこみたくなるが、傷付いちゃうのである。特に初対面の社交の場ではみんな自尊心が不安でビンカンになってるからね。特にそういう場を好むやつって「他者承認→自己承認」の順番をたどる奴多そうだしな。結局、笑顔やら挨拶やらがテキトーなのも、「私」を傷付けるためではないのだ、そういう性質のひとなのだ、と理解されるところまで待てば、内的世界の反映は可能となるのだが、そんな遠回りは時間の無駄だね、という話である。

結局「最初は猫をかぶりましょう」ということを難しげに説明しただけになってしまったが、長らく集団に属するうちに、「猫」は勝手にはがれてくるのだね。お前そういう人だったの、と驚かれることがしょっちゅうあるが、それでいいのである。仮に「そういう人」であることを最初から示してもきっと彼はたじろぐだけでぼくの内的世界をすぐには受け入れなかっただろう。でも自尊心の確保がされた上なら、たとえ彼自身が内と外のズレを感知しない人であっても、ズレた内部を持つ人間を面白がる柔軟さは結構持ち合わせているものなのだ。

なんかこういうことを書き連ねていると、ぼくがすげえ自意識過剰な、自分を特別だと思っている、いわゆる中二病みたいな人間と思われそうで嫌なのだが、というかまあ若干否定しきれない部分もあるが(笑)、しかしまあ基本的には平凡な人間である。少なくとも突出した「ズレ」は持ち合わせていない。どっちかというとちょっとのズレに敏感? まあわからないが、僕の某父親が「お前はスペシャルな人間なんかじゃないぞ、勘違いするな」みたいないかにも頭の悪い説教をしてきても鼻で笑ってられるのは、べつに彼の言うような「ありきたりな凡人」として自己認識しているからでもないし、「なんと言われようが自分は特別な選ばれし人間だ」と思っているからでもない。果たして一貫して「スペシャルな」人間なぞいるのかね。ぼくは基本的に平凡で、ありきたりで、ノンポリな人間ではあるが、それでも例えば友達との会話中に何かを言われて、こういうふうに切り返すのはおれだけだろうな、と思えるようなとき、あるいは自分の考えを自分なりの言い回しで表現できたとき(笑いがおきればそれが「反映」された証拠だと見ていい)その瞬間の「自分」だけは「スペシャル」(某父のダサい言葉を借りればだが、なにスペシャルてw)たりえていると思っている。これも自意識過剰か。まあたぶんそうだろう。

で話を恋愛感情のほうへ戻すが、ていうかもう何がいいたいかバレバレだろうがありゃ他者承認への渇望の最たるものじゃあないかね。別にそれ自体をどうこう言うつもりもない、というかぼくにも特定の異性からの承認を強く求める感情があるのだから言えるはずもないが、しかし、恋愛至上主義者よ、キミらはなんとかならんのか。

この年齢だから周りのひとたちも既に彼女をつくったり異性とデートに行ったりしているのをよく聞くわけだが、やたら有頂天だったり、恋愛市場で遅れをとっている人間を小馬鹿にする発言をしたり、その豹変ぷりが大変に鬱陶しいのである。状況がいいから、高ぶって、舞い上がって、気が大きくなっているのかもしれないが、その極端なブレ方ははっきり言えば自身で自分を承認できない「弱さ」の現れだからな。やめてくれ。別に恋愛に限ったことじゃなく、ま例えば学歴なんかもそうなのだが、そして前回もちょっと書いたが外的なコード、既存の外的価値序列で上位にのぼって有頂天、他人を切り捨てるってメンタリティめちゃくちゃダサくないですか。そこまでのぼりつめるのに努力やら才能やらがなかった、などというつもりは毛頭ないが、それでもそれはどう見たって虎の威を借る狐、世間という巨大な味方の背後で威張り腐ってるスネ夫的メンタリティだ。みっともない。

だからそうじゃなく、自分内部の基準によって自己を承認し、その結果として他者承認が付いてくる、という生き方はできないか。まあ難しいけどね。他者から承認されるという快楽を得たら、もうそれに溺れてしまう、自分を支えていた主軸がブレて自分を承認してくれる他者に寄りかかる、評価を依存するようになる、という危険はつねにある。それが自分の渇望した特定の異性からの承認ならなおさらだろう。あなたを唯一の存在ですよ、と互いにみなす双務契約。だからこそ「甘い」のだろうけど。

てことで、なんかやたらリッパなことを書きすぎたような気もしないではないが、最後に、うまくつながってるか若干不安であるが最近プチブレイク中の木下古栗から引用して終わります。

 我々は宇宙人だ。地球人も宇宙人とするならである。バラク・オバマは一見ワイルドなことに将来的な火星への有人飛行をぶち上げたが、それは不都合な真実から目を逸らさせるためでしかなく、我々は火星になど行く必要はない。そんなものはこの閉塞しきった環境にまだ外部があるかのような夢想を抱かせようとする他愛のないまやかしである。なにせヴァージニア州のエリック・ウィリアムソンのように、自宅でさえ全裸で過ごしていると訴えられ一審で有罪判決を下されてしまうのがあの国なのだ。そもそも、我々は既に自分だけのロケットやブラックホールを持っている。もはや選択肢は一つしかない。すなわち、見る影もなくワイルドさを減退させながら締まりなく死に絶えつつあるこの文明、その衰弱を出し抜いて、我々はこの星に移住するのだ。地球の作法など知ったことかとばかりの野蛮さを内に秘めて、ある種の不穏さを唯一の武器として。
 そして制圧する。
 そのためにはまず挨拶である。というのも我々はSF映画にあるようなUFOからビームが飛び交うような侵略戦争を行うわけではない。むしろ狡猾に隠密に、諜報部員のごとく各々自身に潜入して、うわべはまったくこの星の作法に従うふりをしながら、ひそかにそこにずれをもたらし、気付かぬうちに変質の種を忍び込ませ、気付いたときにはすべてが手遅れであるような生起がそこら中で勃発しているべきなのだから。
(木下古栗「いい女vs.いい女」講談社 P216)

いい女vs.いい女

いい女vs.いい女