聞き上手になりましょうってマジかよ

「つまらない」の反対語は何か、という問題がある。正解は2通りあって、「面白い」と「楽しい」なのだが、ぼくはこのふたつのどちらを「つまらない」の反対語として捉えるかでその人の価値観が現れるんじゃないかと考えている。ぼくは「面白い」派なのだが、なんとなく、「面白い」派の人間は不幸になりやすい傾向にあるんじゃないか、人生は「楽しく」なりえても「面白く」はそうそうなりえないんじゃないか、とみている。
どういうことかというと、大雑把にいえば「楽しい」は主観の問題、「面白い」は客観の問題である、ということだ。「面白い」というのがどういうことかについては「分裂は笑いを生む」のところで書いたけれど、要するに通常想定される「流れ」から逸脱すると、人はそれを「面白い」と感じるのだから、人生を「面白い」と感じるためには、受験して、会社に入って、結婚して、家庭を築いて、という「流れ」から逸脱し、かつそこで何らかのものを再構築しなければならない。そんなことカンタンに出来ます? ほぼ無理ですねえ。じゃ、「楽しい」人生は、といえば、「楽しい」は当事者の参加意識、所属意識といった主観の問題だから、平凡極まる人生であっても楽しむことはできる、のである。「面白い」派のみなさんは、基本的に行動力がなく、観察する側、頭でっかちのひとが多いんじゃあないでしょうかね。あとはコミュニティへの所属意識みたいなものが薄いとか。勝手な予想ですけどね。

ぼくが何故大学に入学してからこれほどまでに集団内でのコミュニケーションに苦しんだのかというのも、環境が「面白い」派が多数を占める空間から「楽しい」派が多数を占める空間にガラッと変わったからじゃないかと考えている。つまりコミュニケーションの質(面白さ)云々よりも、まずはコミュニティへの所属意識(盛り上がり)を優先する空間である。
コミュニケーションというのは、当然だが情報の発信者と受信者がいて初めて成立するわけだけれど、発信能力と受信能力双方とも高ければ問題は起こらないが、現実としてなかなかそうはいかないからどちらか一方の能力を重視するようになる。で、じゃあ「面白い」派のコミュニケーションスタイルがどんなものになるかというと、むろん「面白さ」重視なのだから発信能力に依存することとなり、「楽しい」派は盛り上がりを優先するのだから、そのコミュニケーションは受信能力に依存することになる。このことを如実にあらわすエピソードをひとつ紹介しておくと、高校時代、まあぼくは全然親しくなかったのですが、A君というスベリキャラがいて、彼は一発ギャグを持っていた。もちろんスベるための一発ギャグで、沈黙が発生した後、いかにそのつまらなさを面白くイジるかが高校のコミュニティーでは重視されていた。さて大学に進学したA君、またいつもの感じを期待して持ち前のギャグを飲み会で披露しましたとさ。で、結果どうなったか。大爆笑である。これには本人もえ、え、ウケちゃったよ!!と驚愕したそうで、もうその話訊いたときにはもうそりゃあおれらの立場なくなるわけだわなって感じでしたね。

さて問題は、世の中でどちらの派閥が大きいのかということなのですが、まあお察しの通り、「楽しい」派による受信能力重視のコミュニケーションスタイルなんですねえ。残念ですねえ。たとえば、「口下手」「雑談 苦手」みたいなキーワードで検索かけてもらえばわかるとおもうのですが、「会話が苦手で、参加できません。どうしたらいいですか?」「聞き上手になりましょう!」といった問答が複数回繰り返されております。
この「聞き上手」推奨の態度こそまさに受信能力偏重型コミュニケーションの現れで、まあ回答者たちに決して悪意はないのでしょうが、しかし一方でこの受信能力への過度の依存こそが孤立気味の人間を生み、くそみたいにつまんねえのに笑い声の発生するあの寒々しい状態を生みだしてるんじゃねえの、とは思うのだ。ぼくは面白くもないのに笑顔を浮かべる術も最近身につけましたけど、輪の隅っこでニコニコしてたって得られるのはとりあえずコミュニティに所属してるという追い詰められた安心感だけ。正直、ぼくは発信能力が高くて受信能力が極めて低い人間なのだが(感想文とかめっちゃ苦手。センサーが反応しないとなんにも思いつかない)、「おれは中学時代***だった」「あたし昨日***だったんだ」みたいな事実報告されましたところで「ふうん」「へへえ」「ほほお」以外のなんの反応も浮かばない、っていうかなんでお前ら主観を添えないの? それが「好き」とか「嫌い」とか「だるい」とかなんでもいいけどそういう感情読みとれないとこちらとしてもなんとも申し上げようがございませんのですが、あ、そうか、君らにとって「嫌い」という感情は即「悪」と断定されるんでしたっけね。何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!!!でしたっけ、別に「好き」も「嫌い」も自由に語らせてもらうわ。ヴォケ。なんで「好き」のほうが高級な感情みたいな扱いなのww なんなら俺っちレイプ大好き!!とかでもいいんスか?スか? 
話それましたけどね、受信能力偏重型コミュニケーションでは、情報は丸投げされ、「つまらん」という意見表明は禁止され(だってツマランと感じちゃったら聞き下手レッテル=コミュ無能力レッテル貼られちゃうもんね)、クソつまんねえのにキャッキャうふふせねばならない地獄絵図が現れます。基本的に彼らのコミュニケーションは言ったもん勝ち、しゃべったもん勝ちみたいになってますが、発信能力の高い人間は、情報価値は文脈に依存することを知ってますからむやみやたらと言葉を垂れ流したがりません。結局小説家やら芸人やら、発信能力の極めて高い人々が私生活では暗い・無口ってのはこういうところに起因するんじゃないか。ね。そう考えると面白い芸人はなんで暗い人が多いのかつながってくるっしょ。

ま、受信能力偏重を悪のように書きたてましたけど、もちろん発信能力偏重にも問題はあります。まず、まあ実際に中3高1くらいの時期にありましたけど、ツマラン発言すると「だからなんだよ」「スベッたんじゃね」的な攻撃を食らうんですね。やりすぎるとみんな発言するのが怖くなってきて誰もしゃべりたがらなくなるし、フォローするやさしさもなくなっていく。これもダメですね。まあここまで極端なのはみんな途中でダメだと気付いてやめましたけど、実際そんな環境にいたから自分発信でモノをいうことが少なくなったということはありそうな気がする。「こんな雑な情報でいいのか」って発言してもちゃんとある程度会話が続くとこなんかは「楽しい」派のみなさんさすがです。まあ何事もバランスですね、っていう究極のつまらない結論でこの記事を締めたいとおもいます。