コミュ力のない奴は死ね、と社会が言う

物語というワードは、その「作者」を「作品内の神」と捉えなおすと「運命」に似た響きを持つことになる、とこないだまでわらわら書いてたわけですが、一般的に「物語」というワードが単なる「ストーリー」という意味以外で使われるとき、「作者」は「神」ではなく「社会」「伝統」あるいは「文化」と置き換えられている。つまり、社会が(あるいはより具体的にマスコミが)個々の人生を総括して意味づけ、人々の無意識に働きかけてその「意味=価値観」を刷り込んでしまうことはやっぱり確実にあるとぼくは思うわけで、そういった構造はやはり「物語」と非常に似た性質を帯びてくるのだ。なぜかというと、社会から価値観を刷り込まれた当の本人はその事実に無自覚であり、自分の頭で考えだした価値観であると思い込んでいる、あるいはその価値観を「当然のもの」と見做して疑おうとしないからだ。物語のなかの登場人物も、自分の頭で考え、発言し、行動していると思い込んでいるでしょ?

クハハハハハ!愚民どもめが!って言いたいわけじゃないですよ。別に。だって、「美醜」ですらも文化的に形成された基準なんですよ。びっくりしません? 上戸彩やら佐々木希やら、まあ誰でもいいんですけどそういうアイドルを見てカワイイと思うのって、本能レベルの話だと思うじゃないですか。でも実は、単に「こういう顔をカワイイとする」って文化的に形成されたものにすぎなことは、平安時代の美女が今見ればトンデモなかったりする事実からも推測できることと思います。あとはファッション。ウン十年前に最先端だった洋服とか髪型とかも今見るとダサすぎて驚愕するよね。え?これ本気でカッコイイと思ってたの?wみたいなね。マスコミが「この洋服/髪型がカッコイイ」と宣伝したから「カッコイイ」となったにすぎないのだ。だから、オシャレさんが大抵環境適応能力が高い(俗にいうリア充?)なのは、そうやって社会が差し出してくる価値観=意味を率先して受け取る人たちだからなんだろうね。

ちょっと話がそれましたけど、要するに文化的に形成され刷り込まれた価値観というのは想像以上に根深いもので、そこから完全に独立することなんて不可能だと思うんですよ。常識を疑え、という言葉にぼくが微妙な違和感を覚える理由の一つにこういうことがあるわけですが、まあそのことはまた今度書くとして、最初に述べたような「物語」という言葉の使用でもっともポピュラーなものに「大きな物語の喪失」という言葉があります。リオタールとかいう人が「愛による原罪からの解放というキリスト教の物語、認識による無知や隷属からの解放という啓蒙の物語、労働の社会化による搾取と阻害からの解放というマルクス主義の物語、産業の発展による貧困からの解放といいう資本主義の物語」を信じていた近代を指していったものなんだそうです。

ま、なんかやたら難しげですが、要するに社会が人々の生に与えていた「意味」が、さまざまな矛盾によって崩壊してしまい、宙ぶらりんの状態になってしまった、ということでしょう。身近な例でいうなら、たとえば学歴とかね。もちろん今だって日本は学歴社会でしょうけども、かつてほどの威光を放っていない。昔は、ってぼくは18なんでこういう言い方はナンですけども、どうも昔は「いい学歴→いい会社→金持ち→シアワセ☆」という一連の流れが社会の中で出来上がっていて、人々もそのパターンに乗っかろうと躍起になって勉強していた、らしい。これぞまさに「物語」でしょう。一生懸命に勉強したら頭が良くなる、頭が良くなれば社会をより良くすることができる、社会をより良くするんだから金をもらって当然、金さえあれば何でも買える、だからシアワセ! 次のステップに進むために、一々合理的な理由が付与される。因果関係がはっきりと示されて、きれいなラインが描かれる。

ところがだんだんと、ぽろぽろ、ぽろぽろ、社会が物語をこしらえる過程で取りこぼしたものが積み重なって軋みはじめる。「勉強する」「頭がいい」「いい会社に入る」「社会が良くなる」「金持ちになる」「幸せ」それぞれの断片をつないでいた根拠がぐらぐら揺らぎ始めるわけです。

学歴がいいからといって必ずしも仕事ができるわけじゃない。学歴フィルターは相変わらずあるけど、なんかコミュ力とかいう得体の知れないものがプラスされてきちゃう。あるいは、いい企業入ったところで不景気なのでリストラになるかもわからない。会社そのものが潰れるかもわからない(リーマンブラザーズ、JAL等々)。世界第二位になったし別に日本国全体を良くしようなんて気概もない。金があっても鬱病になる。

だから新たに社会は物語をつくりかえることが必要になってくる。物語がなければ社会は成立しませんし、最終的には言語を放棄せねばなりませんからね。物語に従わない者、はみ出る者は排除されて(ある意味)当然、なのである。そんでもって「学力」「経済力」にかわる新しい物語の構成要素として言われ始めたのが最近やかましい「コミュ力」ってやつなんじゃないですかね。(と、ここでちょっとマジメに憤りたいんですが、一体、コミュ力コミュ力っていうがそれは一体何を指すの?空気を読む力?適当にだらだら雑談すること?ウソをうまくつく能力?笑顔を上手に浮かべる力?うまく言語を操って相手に伝達する力?嫌いな奴とも上手く折り合いをつける力?まあなんでもいいですけど、ちゃんと言葉を定義しないうちから「コミュ力」という言葉だけが独り歩きしてると、「乱用」されますよ。また気に食わない奴を迫害するためだけの言葉になりますよ。「空気読め」だとか「中二病」みたいに。)

んまあずいぶんとそれこそ「大きい」話してますけど、物語(=意味づけ)は日常のあらゆる場面、あらゆる言葉に潜んでいるのだ。だって、たとえば、就活のエントリーシート、部活を続けたことで「諦めないことの大切さ」を学んだって、それ、本気で言ってるんですか? あるいは、テレビとかでよく聞く、ある言葉(名言、格言的なアレ)を聞いた瞬間人生観がガラリと変わって好転しはじめた、みたいな話、あれって正気ですか? まあ別にキミが何を学ぼうと知りませんけど、そういう学び(笑)やら気づき(笑)やらって背景に複雑なイロイロなんやかやがあって、気づいたら学んでいた、気づいていたとなるのが普通だと思うんですけどねえ。

「ハッ!おれ今、気づいてる!」

って絶対おかしいじゃん。だって、時間の流れは、というか人間が想起する過去というのは単なる断片の連なりじゃないのか。その断片と断片を無理やり理屈でくっつけて物語をこしらえようとするから、ポロポロ、ポロポロ、欠片が落ちていくのだ。でも物語を作るには、絶対にそういう乱暴な行為を通さねばならない。だって、ストーリーの初めから終わりまで全く時間を飛ばさずに書かれた小説、映画、漫画って見たことないでしょう。必ず断片、断片が一連の流れに見えるように作られている。

で、そういう物語が含むウソ臭さ、マガイモノ性を徹底して追及したのが田中小実昌「ポロポロ」という作品なのです。谷崎潤一郎賞受賞作。どんな内容かというと、一応作者の戦争体験を綴った短編小説集なのですが、ふつう「戦争モノ」と言われて想起されるものとは全く違って、平和の大切さなどという凡庸なメッセージは発してこない。だってなんか下痢便のことばっか書いてるし(笑) 人は死ぬし、爆弾も落とされるが、そこに劇性はない。映画でいうと、悲しい音楽が流れる感じがない。そして、小説の中身はというとこれまた断片ばかりなのだが、その記憶の断片たちが、互いに絡みあわないまま独立しているのだ。この構成そのものが、「物語」という表現方法に対する反抗ともなっている。文章も、はっきりいってぐちゃぐちゃである。ふつうに読めば論理関係があいまいになっている部分がたくさんあるし、結論もはっきりしない。しかしその整理されきれていない思考、カオスをカオスのまま保存しようとする文章こそがこの小説の最大の魅力であるとぼくは考えるわけです。

過剰な意味付けによって事実を装飾することを嫌い、モノそのものを見つめようとする態度、それは実は、「異邦人」におけるムルソーの思想に非常に似ている。「ポロポロ」を読んでくれるとわかることですが、彼の文体は否定形で終わることが多い。〜ではない。でも〜というわけでもない。じゃあ何なのか、というとその結論を口にしないのである。別にはぐらかしてるわけでも勿体つけてるわけでもないだろう。言語化できないのだ。その言語化できない、物語をこしらえる途中でぽろぽろと落ちていったものをすくい上げてなんとか表現するために、彼は、否定に否定を繰り返し、「それ以外の何か」を指し示すのである。「真理」というものが仮にあるとすなら、それがきっとそうなのだとおもう。