教育ってどうあるべきなんでしょうね、ていうお話

べつに学校制度について云々したいわけじゃない。もっとうすぼんやりした直感的な話。
教育ってだいたいふたつパターンがありますよね。既存の制度・規範・価値観・道徳・その他もろもろをごりごり子供に押しつけるタイプのものと、自由にのびのび、感受性豊かに、て奴。で、やっぱり最近は相対主義の傾向がつよいから、自由にのびのび型が推奨されているようでして。いわゆるゆとりって奴だね。ゆとり世代ど真ん中のぼくですけども。

で、まあ僕はこれから両者とも否定していきたいのだけども、まずは、前者、ゴリゴリ型からいくと、やっぱりこれは押しつけがましくってよくない。いろいろな考え方・感じ方を、無理やり一律に型に押し込めるから、個性がなくなる。すると、その反動で極端なまでに反抗するものが出てくる。窓ガラスたたき割っちゃう。盗んだバイクで走りだしちゃう。大人は汚い、信用できない、とか言っちゃう。まあさんざん言われてることなんで別に改めてかく必要もないけどもね。

で、後者、のびのび型。これもまたもうどーしょうもないね。個性、個性、と煽った挙句出来あがったのは、「ありのままの自分☆」といいながらこの上なく凡庸な、自己愛と表現欲が強いだけの馬鹿だった。結局ひとの感受性・思考回路なんてそこまでバラバラじゃない、というよりひとつの共同体に在る限りそこの価値観に無意識に染まるもので、そこでいくら表面的に個性を称揚したところで意味なんぞないのだ。好きな女性タレントは?と聞かれて、上戸彩やら、佐々木希やら、そのへんの有名な美女に結局は票は集まるわけで、個性や自由を言ってみたところで森三中山田花子やらを美女と感じる人が増えるわけじゃない、ていうお話。意見が食い違うとすぐ「そんなの人それぞれじゃん!」「価値観を押し付けるなよ!」と怒り狂って相対主義に避難する人間に中学生・高校生が圧倒的に多いのも、単に脳味噌の未熟さがなせる技ではなくて、この「みんな違って、みんないい(そのわりに横並び)」教育に影響された、結構根深いものなんじゃないかとぼくは思うのだ。
でも、のびのび型教育の一番の問題点は、おそらく、社会にうまく適応できないで苦しむ人間を大量に生み出すことなんじゃないかと思う。要するに、社会で生きていくには「損」な性格を、「損」だと知らされないまま、年齢を重ねてしまう。さっきも書いたが、同じ共同体に在る限り価値観はある程度統一されるわけで、狭い枠のなかで「個性、自分らしさ、オリジナリティ」と言ってキャピキャピはしゃぐマジョリティと、そこになじめないマイノリティとの間にある溝は深まる。マイノリティはしょせん「少数派」ってだけであり、どこかしらが突出するわけでもない。社会というのは、当たり前だけどある一定の価値観を共有しているから成立するわけで、そこから逸脱した人間に残された道は、芸術家、もっと広く表現者として、表現の自由で食べていくことしかない。しかし、表現者には突出した個性(=才能)が必要である。運に左右される。数に制限がある。才能がないのに、「損」な性格を野放しにしていたらどうなるか。性格を変える(矯正する、治す、とは言いたくないが)のは年齢を重ねるほど困難になる。中途半端な個性、中途半端な社会性。芸術家にもなれないしサラリーマンにもなれない。おまけに不景気。就職難。結果どうなるか。ひきこもるのである。ニートになるのである。
こういうことを書くと、社会・教育のせいにするな、甘えるな、という人がたぶんどこかにいると思う。おそろしいね。その脳みその腐り具合が。相対主義は基本的にすべての結果は「自己責任」に帰着させられるからね。
2ちゃんねるにあった書き込みなのだけど、だいたいこんな内容のものがあった。小さい子供のころは、授業中におしゃべりしたり、友達をからかったり、掃除をさぼったりしなければ、叱られることがなかった。与えられた課題以外何もしなくとも平穏無事に暮らしていけた。ところが、年齢を重ねるにつれて、「何もしない」こと、まさにそれによって周囲から馬鹿にされたり、軽蔑されたりするようになる、と。
のびのび個性尊重、の話とはちょっとずれるような気もするけれど、「社会が求めること」と「学校が求めること」の齟齬が問題となっている点では、共通する。要するに、個性尊重だなんてぬかしても、大人社会がそれを受け入れる準備が出来ていないんじゃ意味ないじゃん、て話である。

教育は理想の場としてじゃなくて、あくまで社会との連動の中で形成されるもんじゃないの。
てことで提案。ぼくは、もっとメタ的なレベルでゴリゴリ教育をすべきだと思う。ゴリゴリがやりすぎなら、まあ、ゴリ、くらいで。要するに、学校の先生が、教育の意味についてもっと自覚的になるべし、というわけ。人間形成の場、なんてカッコイイこと考えないで、自我が発達する前の子供たちを社会適合に適した人材に変える、というドライで現実的な役目で捉える。ある倫理を子供に教えるにしても、絶対的真理としてその倫理をゴリゴリするんじゃなくて、社会では残念ながらこの価値観をスタンダードなんだよ、的なかんじで、一歩引いた目線から教育する。どうせ思春期になれば、その倫理が絶対なわけじゃない、てことに気付くんだからねえ。「善悪は見方によって変わる」なんて、いまや超メジャーな少年まんがワンピースに登場するくらいですからね。あらかじめ、テツガク的には「絶対」なわけじゃないけど、社会で生きるには「絶対」ですよ、と教えといちゃえば、相対主義に目覚めた反動で、盗んだバイクで走りだしちゃうこともないんじゃなかとおもうんですけども。それで個性は押しつぶされるか、といえばそんなことはないだろう。個性って、押し付けられた型なんて跳ね返すくらいのパワーがなければ成立しませんからね。ちょっと押しつけられただけで「価値観の押しつけだ!」なんて悲鳴あげちゃうようなヤワな「個性」だったらさっさと切り捨てて社会適合したほうがいいとおもう。

だからその意味で、まあ現実的にはキビシイだろうけど、社会人経験者を教師として採用してったほうがいいんじゃないか。地方の小学校のセンセなんて、もうひどいもんねクオリティが。もちろん例外だってあるでしょうけど。ぼくの通った千葉県の小学校はひどかった。なんか汚いひげおやじみたいな奴いたし。女性に優しく、という言葉をなんか履き違えて男を弾圧するバカもいたし。金子みすず、朗読させられたねえー。なんだったんだあいつらは。