恋愛の解体と非モテの滅亡

恋愛について書く。半年近く前になる前回の記事でぼくが恋愛対象として選んだコとどうなったかといえば、まあメール毎日したりスカイプ通話したりだとか結構いい感じに事をすすめたつもりだったわけだが、結局頓挫いたしました(笑) で、今はまた別のコとちょっといい感じになってて経過観察というわけなのが、別に身辺雑記ブログじゃないんで詳しい事情は書きません。ほんとは今のコレが終わってからまとめようと思ってたのだが、決着つくのがいつになるかわからんので今なんとなく恋愛に関して考えていることを吐き出していきたいとおもいます。

結局恋愛って人間関係の一形態にすぎないよね、というのがぼくの実感である。二十歳直前まで恋愛にぜんぜん縁がなかったのになんでここ半年で恋愛に関する案件を二つも抱えんこんだのかおれは、という問題もここと関係しているようなのだが、たぶん多くの「非モテ」と呼ばれる人たちと同じで、恋愛市場に参入する前のぼくは「恋愛」というものを通常の人間関係とは切り離されたもの、恋愛小説やらドラマやらによって無意識のうちに刷り込まれた「甘く」「ロマンチックな」イメージとして捉えていたように思う。実は中学生のときにも恋愛に関するイベントが一件発生したことがあったのだが、そのときはまだ自分のなかに価値観やら世界観とよばれるようなものが一定の形で構築されてなかったから、ただひたすら内部にある恋愛的イメージに身をすりよせるような動きしかしていなかった(逆にいえばそんな動きが出来た!のだが)し、相手の女の子もそうだったとしか思えない。そんですぐに破たんした。つまるところドラマだのラブソングだのといった虚構と現実が区分されぬままカオスに渦巻いていて、それに翻弄されていた、というわけである。まあ逆にいえば中学生当時は世界との距離の取り方が確率されてないからある程度そんな動きも柔軟にとれたわけだけれど、高校を卒業するころにはもうおれはそんな状態にないわけで、それでも恋愛に関する原初的イメージはしつこく無意識にこびりついている。するとどうなるか。「そんな甘ったるい世界におれの居場所、あるはずないよね」とこうなるわけで、「恋愛している自分」というものをまったくイメージできず、恋愛経験あるのが当たり前な年齢にさしかかっているということすらイマイチ実感できぬまま、若干の不安にさいなまれつつ日々を過ごすこととなる。

悪い癖でまた小難しく書きすぎたような気もするが、これは全然珍しい現象じゃないだろう。他の事柄に関しては虚構と現実を混同しないはずのひとびとが、なんでこと恋愛に関してはそんなことになってしまうのか、というのは恋愛がきわめてパーソナルなものだということが関係している気がする。恋愛は、ふたりの人間が濃密な関係を構築し、共有するものであるのだから、その閉鎖性ゆえに他人がどういう恋愛をしているのか知ることは友情的に親密な関係にあってもなかなかむずかしい。要は「リアルな」恋愛についての情報が少なすぎるのである。

リアルな情報を知らず、虚構によってイメージを刷り込まれた人間はどうなるかといえば、だいたいは2パターンに分かれる。ひとつは、恋愛に関して無関心な態度を貫く。この「無関心」はよく「ほんとは恋人がほしいのに自分に自信がないからムリしちゃってるんだろ」っていう例のごとく自分の立場からしかモノが見れないバカの恰好の攻撃対象になるものだが、ほんとうは、上述したような「実感のわわかなさ」「恋愛イメージと現状の自分との乖離」によってもたらされてる場合が多数である。で、ふたつめは何かといえば自分のもつ原初的恋愛イメージに忠実に身を寄せようとして玉砕、みたいなパターン。まあ相手方も奇跡的に同様の原始的な恋愛イメージを持っていて、かつ、ルックスやらもろもろの条件が一致すれば交際関係にもなりえるだろうが、年齢を重ねるほどその可能性はどんどん低くなるだろうね。体育館裏に呼び出して「ずっと、ス、、スキでした」「実はワタシも、、、、(キュン)」みたいなのをリアルで再現しようってんだからまあそりゃ無理なはなしでしょ。あいかわらずアホですね。男子校とか女子校出身者で、大学はいったとたんに手当たり次第に告白して全敗みたいな例をときたま耳にするが、これはパターン②の超極端な例だろう。やたら恋愛欲求が切実なのに上手くいってないひとってだいたい②の要素を持っているな、というのがぼくのいまんところの実感です。

交際関係にもっていく前のあいまい状態では何に気をつけるべきかっていえば、温度差だろう。すげえざっくりした言い方すれば自分から向かってく場合は相手の好意の一歩先、相手から来る場合は一歩後方を歩くみたいなのが一番うまくいきそうですね。まあもちろん相性がよければ、という留保付きの話ではあるのだが、温度差の何がダメなのかといえば、すぐ上の話とも関連するが一方だけが熱を上げてる状態って、ほとんど相手の実態を把握できてないのである。要するに生身の相手を理想的イメージで捉えてしまってる。相手はそりゃビビるよね、「あなたに興味あります」って来てくれれば「よっしゃワタシという人間を見せてやろう」って自己顕示欲もくすぐられてイイ気持ちでしょうけど、「あなたのこと好き!もう好き!ぬぬぬん!」って感じでせまってこられたら冷静な状態の人間はふつう内省を始めます。「私」はこの迫りくるラブに対応するだけの立派な人間か? このヒトが熱を上げているのはこの「私」ではなくこのヒトの内部にある「私」に関するイメージ(=虚構)なのではないか? 言語化すればこんな感じだが、このバクゼンとした不安が「重い」といった言葉となって現れる、というわけだ。

そのひとがそのひとであるがゆえに愛するなんてことは不可能だ。私が私であるがゆえに愛することができるのは私だけだろう。最近再読した鷲田清一の「じぶん・この不思議な存在」のなかでナンチャラっていう古い哲学者の言葉が引用されていて、まあ正確な記憶はないのだが、要するに「美しさゆえにあるひとを愛した場合、もはやその美しさが失われたとき愛も失われるだろうし、能力ゆえに愛した場合も同様のことがいえる。結局ひとは他者についてその性質ゆえにしかそのひとを愛せないのだ」みたいなことが書いてありました。特に反論も浮かびようがない言説だが、だからといって恋愛なんてしょせん性欲を美しく表現したものさ、だとかその他もろもろ恋愛醜悪論に飛びつくのもあまりに飛躍しすぎというもので、中途半端なバカが未熟な思考を振り回すとロクな結果にならないね、ということのなによりの証明だが、じゃあどう捉えるのがいちばん正確といえるのか。

自分のなかにある感情を吟味しようとするまじめなひとたちにありがちなことなのだけれど、自分は、ほんとうに相手という個性、唯一性を愛しているといえるのか? ただ恋愛に対する憧れを実行してるだけ、いわゆる「恋に恋してる」状態なのではないか? という内省をはじめてしまうことがある。絶対にこのひとでなければならなかった、などということは、正直にいえば、ない。でも誰でもいいというわけでもない。とすればこの「私」は何を愛してるのかと言えば、相手と接触しているときの「私」自身を含めてその関係性、そのひとと積み上げた時間を、と表現するのがいちばん的確で実態にかなっているようにおもう。

ここも恋愛が親密な人間関係の一形態でしかないと考えられるゆえんで、通常の親密な友情関係が構築される過程では、相手の人間に対する狂おしいまでの指向みたいなものはふつうみられない。友情の片思いってなくない? 「こいつとしゃべってるとおもしろいな」「なんとなく気が合うな」ということを互いに思っていて、そこに接触の機会が外部から頻繁に与えられることがあれば勝手に自然に構築されている、というのがふつうである。このとき、「私」はべつに相手という一個の人間をそのまま直視しているわけではない。おれの「私」と相手の「私」との間に生まれた関係性、というフィルターを通して相互を見つめあっている。同じことを恋愛関係でもやればいんじゃね。世間は「私」というエゴが介在することにやたら嫌悪感を抱く傾向にあるのだが、私は「私」以外の生を生きることなんてできるはずないでしょう。むしろ恋情、片思いという名で呼ばれる相手という人間への直視のほうがよっぽど無謀で醜く感じるわけだが、世間ではこれがjpopとかで美しく謳いあげられているよね。ぜんぜんいみがわかりません。

通常の人間関係と恋愛関係のいちばんのちがいは、「私は/あなたが/好きです」「はい/私も/好きです」という言葉を借りて、両者の間に生まれた関係性について両者ともに特殊なもの(あるいは唯一無二のもの)と感じていることを明確化し、共有せねばならない、ということである。言語は外部に表明された途端にある種の拘束力を生む。これは法律だろうがマニュフェストだろうが単なる口約束だろうがそうだ。つか告白にはじまる交際関係って契約に似てない? チュートハンパな知識ふりかざして申し訳ないが申し込みと承諾の合致により相互に諸々の黙示の義務を負う。あまりにモテすぎる女が彼氏つくりたがらないのも結局のところこのへんが理由で、わざわざそんなしちめんどくさい義務を負わずとも、いろんな男からちやほやされてるほうが(恋愛庶民たちの)「恋愛したい!!」という欲求の主な要因のひとつである承認欲求は十二分に満たされるのだ。うわー。男みたいに性欲っていうもうひとつの切実な欲求もないしね。

話が逸れたが告白という確認作業によってふたりの関係は確定され固定される。それがどんな内容なのかといえば、互いに互いを(自分との関係において)唯一無二の存在とみなす双務契約だ。あたりまえだが「アナタのことがスキ(ハート)」というココロは目に見えない。そこでコトを分かりやすいカタチで表すために、双方は交際関係に入ると相手方を唯一と見做していることを証明するための諸々の行為を行う義務を負う。こんなことするのはほかでもないアナタが相手だからですよ、というわけだ。まあ端的にいえばセックスがその代表例なわけだが、交際関係にない者同士のセックスが忌むべきものとされるのも、要するに愛してなくたって物理的にはセックスが可能であることがおおっぴらにされたら(もう既におおっぴらだが)「スキだから→する」という公式が破壊されて愛が不安に陥るからじゃあないですかね。

ていうかなんか書いててすげえはずかしいぞこれ。読み返してみると、ちょっと冷めすぎ?こんだけ語っといてなんだがおれにとってあんま恋愛ってそこまで切実な問題でもないんだよね。とくに結論もくそもないがこれでおしまい

内向性につき補足を少々、その他恋愛etc

おれタイトルつけるの下手か。語呂はいいね。何を書きたいかといえばまた内向性、内的基準についてである。

やはり、予想通り、というべきなのだろうが、恋愛市場への参入を果たして自分の内向性の強さというか、強引さを確認した。それがどこまでうまく機能したかは微妙で、はっきりいっちゃえば敗色濃厚、というか長期戦になりそうなのだが、それは今回は高い壁を目標にしすぎた感があるからであって、恋愛全般に関してはこの押しの強さは有利に働きうるんじゃないのかね、と見ている。まあ恋愛・異性全般に関しては消極的、気に入った子にだけ自分のペースでずんずん向かっていく、ていうのは結局僕の物事一般への向き合い方の傾向をそのまま恋愛にトレースしただけ、という感じはなくはない。やはりその意味で「確認」である。

僕が恋愛市場に参入した(この言い方が一番シックリくる)、と聞くと友達はみんな「お前が、、、、!」と驚くのだけれど、そしてその反応もまあ予想通りではあるのだが、なぜ彼らが驚くのかといえばやはり「恋愛」という言葉にどうしても甘くてウェットなイメージが付きまとうからだろう。だから辛口ドライなパブリックイメージの僕とチグハグ感が出て驚く。しかしアイドルだってウンコするのだからこの僕が甘ったるい恋愛感情を抱いたってこの「現実」にはなんの不思議もないはずなのだが、今回はそれはおいといて、そもそも恋愛はホントに「甘くて」「ウェット」なものなのかね。ウェットではあるか。しかし甘い、は嘘、というか少なくとも恋愛感情てJpopで甘いメロディとともに歌われるような美しいもんじゃない、というのが今回僕の、てまだ終わったわけじゃないが、抱いた感想である。どっちかというとなんか脳みそが固執しちゃってると表現する方が適切? こう書くとぜんぜん美しくないね。ぼくは美しいものだけを肯定するわけじゃないからべつに美しくなくたっていいのですけどね。

言うまでもないことだが、この世で最も大切なのは「自分」である。当たり前だ。自尊感情を傷つける相手を好きになる奴なんていないし、親だって自分の自尊心を子供にズタボロにされたら堪らないだろう。以前、ペケポンという番組でタカアンドトシのタカと柳原加奈子いづれかが罰ゲームを受ける、となったときに、ふたりが最近イイ感じであることをネタに周囲から「加奈子を守ってやれよ」と煽られたタカが、「おれは確かにコイツのことが好きだけど、、、自分が一番好きだ!!!!」と叫んだのを見て僕は爆笑しながら一種の感動を覚えたのを今でも記憶している。笑いは、社会性のベールに覆われた「個」が剥き出しにされる瞬間を過剰に演出することで生まれるが、これはその最たる例と言っていいんじゃないか。仏教でも、自分をまず愛し、そして他人もまた彼ら自身の「自分」を愛しているのだと実感することを説いていて、だからこの考えは格別ヘンなものではないはずなのだが、あらゆる行為を「自分」に帰結して解釈することは可能である。自己承認欲求。自己実現

可能どころか僕なんかはそういう解釈でモノを見ることで、なんというか、安心する。他人に親切にするのだって結局「他人に親切な自分」が好きなのである。早い話、親切であることを奨励するなら「思いやりを持とう」なんていうバカ正直なフレーズを掲げてないで、他人を思いやる姿カッコイイみたいなイメージを作り出して体にしみ込ませたほうがヒトは自発的にそれをやるし効率的なんじゃないですかね。一つの例えにすぎないですけどね。わが身を粉にしてボランティアに励むのもそういう自分が好きだから。子供が川で溺れるのを、自分の命を犠牲にして助ける大人、そういう人がこの世には確かに存在するようなのだが、彼らはきっと「子供を見捨ててのうのうと生き続ける自分」という自己イメージに耐えがたさを感じたのだろう。

こういう捉え方を身も蓋もない、といって嫌うひともたくさんいそうだが、なんで身と蓋が必要なのかわからない。自分の命を犠牲に誰かを救う彼らは、「自分の命より他者を優先した」というより、「自分の命より内的規範を優先した」のだと解釈したほうが、少なくとも僕は安心して尊敬できる。変な言い方だな。要するに「自分より他人を優先した」なんて言われてもなんか神々しすぎてピンとこないのである。聖人か。つっこんじゃった。正直いきおいで凄い例を出しすぎてしまった感はあるけれど、命を投げ出せとまでは言わないまでも、自分の定立した内的規範に忠実に、自分の在り方をその都度律しながら生きることができれば素晴らしいね、ということをまあいいたいわけです。つまり、どうせこの「自分」はこの肉体から逃れられず、「自分」以外を生きることなんて不可能なのだから、徹底してこの「自分」という観念を中心に据えながら社会を上手く生きることはできないのかね、とぼくは考えたのでした。それでキーワードになるのが、内的世界の外的反映、というものだ。

こういうこと書くとなんか安い自己啓発みたいになりそうでちょっと嫌なのだが、ぼくはここ半年くらい精神的な強さを身につけたいと考えていて、実際以前に比べればかなりタフになったなという実感もある。なぜタフになったかといえば、前にも書いたように大学入学後にかなりキツく孤独を味わったからに他ならない。どうも周囲に印象を聞いても当時のぼくは平然としているように見えたらしいので不思議なのだが、ぼくからすればあの時期は20年生きたなかで最低であった。まあ世の中にはもっとツラい思いをしているひともいるのだぞ、といわれりゃそうなんでしょうね、と返すしかないが、(自意識過剰なのだろうけど)楽しそうにしている周囲からポツンと取り残され、ことごとく無視されてるようなあの感じ、が延々続く日々はほんとにやばかった。地味にボディーブローを食らい続ける感覚だ。で、前回の記事でも書いたがまわりに「お前面白いぞ」と何度か指摘されて、自分の内部にあるユーモア的感性を杖に立ちあがった、というのがまあ一連の流れなのだが、何をいいたいのかといえば結局のところ、内的な世界を充実させてその中に自分を支える杖を見つけ出すことが、本来的な意味での「強さ」の獲得につながるのじゃないか、ということだ。

正確にいえば「強さ」の獲得の仕方としては、さっくり二つにわけて①実際的な知識・知恵の習得、②内的世界の充実、があるように思える。前者はいわゆる生活能力というか、生きていくために必要な一般的もしくは専門的知識で、これは年齢とともに自然に身に付くものじゃないかね、とみている。まあぼくのそれは結構おそまつだったりするのだが、まあそれは置いておいて、もっと根本的なところで自分を支える②の話だ。

もちろん完全無欠な「強さ」を身につけることなど不可能で、自分一個で自分を100パーセント肯定できる人間がいたらそれはもう悟り開いちゃってるといっていいとおもうのだが、やはりヒトは他人との関係・他人からの承認なしに生きることはできないだろう。しかしそのことはじゅうぶんに認めた上で、それでも自己を承認するのはあくまでこの自分であって、他者からの承認は、あくまで最終確認にすぎないという覚悟でくらすことはできないか。なんか周囲みてると多くの人はこの順序が反転してるように見えるのだね。これだけ多くの他者に承認されてる、だから「私」はすごいのだ、みたいな。しかし内的世界の充実による自己承認→他者承認という順番での自己肯定だって容易ではないが不可能でもないはずで、このプロセスを経て、あくまで「自分」を起点に社会に関わることをぼくはここで内的世界の外的反映、とよびたいわけである。

結局、ああこのコミュニティにいるときは素の自分でいられるわあ、という他者とのコミュニケーションにおけるよろこびみたいなものは、おのおのの内的世界が外的にうまく反映されたことの結果によるものなんじゃないでしょうかね。まあこの内的世界、にもおそらく①内的感性と②内的規範のふたつの領域があるように思えるのだが、世間でネガティブなイメージを付与された内向的人間の復権のために書くけれど、ぼくらはおそらく「外向的人間」よりも充実した内的世界を持っていて、そしてそれゆえに外部への反映が困難となっているのじゃないのか。

つまり外向的な人間は、内的世界と外的世界との不一致が少ない人々であるのだから、この内的世界の外的反映、といわれてもイマイチぴんとこないのではないか。集団は、基本的にこの内的世界と外的世界の不一致率の少ない人々により構成されるもので、だからこそ外的世界と一致しているかのように偽装するのが出来なかった頃のぼくは集団を嫌悪していたわけである。まあ今でも好きではないが。しかし、集団は、実はぼくが思い込んでいたほど外的基準によりガチガチに固められたものではないんじゃないか、というふうに最近は思い始めている。

簡単に言っちゃえば、最終的に自分の内的世界を反映するには、最初、外部に受け入れてもらうための「礼」、要するに手続きが必要であるということだ。初対面やそれに近い形の社交の場では、多くの人はみんな自分の自尊心が傷つけられるのではないかという不安を多かれ少なかれ抱えている。承認の形には、まず①自尊心が確保されること②内的世界が共感されること、の二つがあるようだが、「礼」(挨拶とか笑顔とかね)はこの①の段階を手っ取り早く確保するための手段なわけだね。さっきも書いたが、ひとは自分の自尊心を傷つける者を絶対に受け入れない。笑顔のなさ、挨拶のなさで自尊心が傷付いちゃうのかい、とつっこみたくなるが、傷付いちゃうのである。特に初対面の社交の場ではみんな自尊心が不安でビンカンになってるからね。特にそういう場を好むやつって「他者承認→自己承認」の順番をたどる奴多そうだしな。結局、笑顔やら挨拶やらがテキトーなのも、「私」を傷付けるためではないのだ、そういう性質のひとなのだ、と理解されるところまで待てば、内的世界の反映は可能となるのだが、そんな遠回りは時間の無駄だね、という話である。

結局「最初は猫をかぶりましょう」ということを難しげに説明しただけになってしまったが、長らく集団に属するうちに、「猫」は勝手にはがれてくるのだね。お前そういう人だったの、と驚かれることがしょっちゅうあるが、それでいいのである。仮に「そういう人」であることを最初から示してもきっと彼はたじろぐだけでぼくの内的世界をすぐには受け入れなかっただろう。でも自尊心の確保がされた上なら、たとえ彼自身が内と外のズレを感知しない人であっても、ズレた内部を持つ人間を面白がる柔軟さは結構持ち合わせているものなのだ。

なんかこういうことを書き連ねていると、ぼくがすげえ自意識過剰な、自分を特別だと思っている、いわゆる中二病みたいな人間と思われそうで嫌なのだが、というかまあ若干否定しきれない部分もあるが(笑)、しかしまあ基本的には平凡な人間である。少なくとも突出した「ズレ」は持ち合わせていない。どっちかというとちょっとのズレに敏感? まあわからないが、僕の某父親が「お前はスペシャルな人間なんかじゃないぞ、勘違いするな」みたいないかにも頭の悪い説教をしてきても鼻で笑ってられるのは、べつに彼の言うような「ありきたりな凡人」として自己認識しているからでもないし、「なんと言われようが自分は特別な選ばれし人間だ」と思っているからでもない。果たして一貫して「スペシャルな」人間なぞいるのかね。ぼくは基本的に平凡で、ありきたりで、ノンポリな人間ではあるが、それでも例えば友達との会話中に何かを言われて、こういうふうに切り返すのはおれだけだろうな、と思えるようなとき、あるいは自分の考えを自分なりの言い回しで表現できたとき(笑いがおきればそれが「反映」された証拠だと見ていい)その瞬間の「自分」だけは「スペシャル」(某父のダサい言葉を借りればだが、なにスペシャルてw)たりえていると思っている。これも自意識過剰か。まあたぶんそうだろう。

で話を恋愛感情のほうへ戻すが、ていうかもう何がいいたいかバレバレだろうがありゃ他者承認への渇望の最たるものじゃあないかね。別にそれ自体をどうこう言うつもりもない、というかぼくにも特定の異性からの承認を強く求める感情があるのだから言えるはずもないが、しかし、恋愛至上主義者よ、キミらはなんとかならんのか。

この年齢だから周りのひとたちも既に彼女をつくったり異性とデートに行ったりしているのをよく聞くわけだが、やたら有頂天だったり、恋愛市場で遅れをとっている人間を小馬鹿にする発言をしたり、その豹変ぷりが大変に鬱陶しいのである。状況がいいから、高ぶって、舞い上がって、気が大きくなっているのかもしれないが、その極端なブレ方ははっきり言えば自身で自分を承認できない「弱さ」の現れだからな。やめてくれ。別に恋愛に限ったことじゃなく、ま例えば学歴なんかもそうなのだが、そして前回もちょっと書いたが外的なコード、既存の外的価値序列で上位にのぼって有頂天、他人を切り捨てるってメンタリティめちゃくちゃダサくないですか。そこまでのぼりつめるのに努力やら才能やらがなかった、などというつもりは毛頭ないが、それでもそれはどう見たって虎の威を借る狐、世間という巨大な味方の背後で威張り腐ってるスネ夫的メンタリティだ。みっともない。

だからそうじゃなく、自分内部の基準によって自己を承認し、その結果として他者承認が付いてくる、という生き方はできないか。まあ難しいけどね。他者から承認されるという快楽を得たら、もうそれに溺れてしまう、自分を支えていた主軸がブレて自分を承認してくれる他者に寄りかかる、評価を依存するようになる、という危険はつねにある。それが自分の渇望した特定の異性からの承認ならなおさらだろう。あなたを唯一の存在ですよ、と互いにみなす双務契約。だからこそ「甘い」のだろうけど。

てことで、なんかやたらリッパなことを書きすぎたような気もしないではないが、最後に、うまくつながってるか若干不安であるが最近プチブレイク中の木下古栗から引用して終わります。

 我々は宇宙人だ。地球人も宇宙人とするならである。バラク・オバマは一見ワイルドなことに将来的な火星への有人飛行をぶち上げたが、それは不都合な真実から目を逸らさせるためでしかなく、我々は火星になど行く必要はない。そんなものはこの閉塞しきった環境にまだ外部があるかのような夢想を抱かせようとする他愛のないまやかしである。なにせヴァージニア州のエリック・ウィリアムソンのように、自宅でさえ全裸で過ごしていると訴えられ一審で有罪判決を下されてしまうのがあの国なのだ。そもそも、我々は既に自分だけのロケットやブラックホールを持っている。もはや選択肢は一つしかない。すなわち、見る影もなくワイルドさを減退させながら締まりなく死に絶えつつあるこの文明、その衰弱を出し抜いて、我々はこの星に移住するのだ。地球の作法など知ったことかとばかりの野蛮さを内に秘めて、ある種の不穏さを唯一の武器として。
 そして制圧する。
 そのためにはまず挨拶である。というのも我々はSF映画にあるようなUFOからビームが飛び交うような侵略戦争を行うわけではない。むしろ狡猾に隠密に、諜報部員のごとく各々自身に潜入して、うわべはまったくこの星の作法に従うふりをしながら、ひそかにそこにずれをもたらし、気付かぬうちに変質の種を忍び込ませ、気付いたときにはすべてが手遅れであるような生起がそこら中で勃発しているべきなのだから。
(木下古栗「いい女vs.いい女」講談社 P216)

いい女vs.いい女

いい女vs.いい女

内向的性格は結局「損」なのか

てことでおよそ3ケ月ぶりに更新。まあ書きたいことはたくさんあるのですが、体系化されてないからどう切り貼りしていいのかわからないんで、カオスな感じになってしまうかもわかりませんが、ま、いいか。

ぼくは高校生のとき「自分探し」みたいな言葉をちょっとバカにしていたのだけれど、この一年ほどの間ぼくが思考してきたことをザックリまとめればやはり「自分は何者なのか」ということになるのだろう。今日はその思考の過程をここに吐き出すつもりなんで、おそらくこのブログ史上もっとも自分語りの激しい回になるでしょう。あしからず。ま共感できるとこだけしてください。
小中学生のころ、つまりまだ自我が芽生える(?)前のぼくは結構明るい性格だったように思う。友達も、まあ少なくはなかったし、小学校の卒業アルバム見てもなんかはしゃいでる(笑)のですが、高校に入って文学とか読み始めてから無口になって、醒めた性格になった。というかそういう性格になったから文学にはまったのか、まあそのへんの前後関係はよくわからないが、中高一貫校に通っていたから(つまり中→高と対人環境が全く変化しないから)自分が世間の感覚とずれてきてることにほとんど気付かなかったんですね。ひとりでいるときはフルクリ最高〜とか考えてヘラヘラしてりゃよかった。で大学入ってびっくり。なじめねえええええ! 誰じゃこいつらつまんねええええ! 仲のいい友達が多数いるっていうのは、「なじむ」という言葉もしめすように自他の境界があいまいな状態ですから、あまり自分を形作る輪郭の存在を意識する必要がないのだけれど、これまた文字通り対人関係で「浮いた」ら、この「周囲から浮きあがってる」自分は一体何者なのか、緊急に答えを出す必要が出てきた。

つってもまあこれは分かりやすく書きすぎで、入学後の3ケ月くらいはただひたすらどう立ち振る舞えばいいのか右往左往するばかりだったっていうのがホントのとこですね。ここで内向・外向という人の性格を表す言葉が登場するわけだけれど、つまり当時のぼくはバカだったから自分の人格は圧倒的に内向性が勝っているという事実すら認識せずに、大学で圧倒的多数を占める外向人間(あるいは上手くそう偽装してる人もたくさんいるんだろうけど)の振る舞いを真似しようとしてたわけである。このことはこのブログの一番最初の記事にも表れているのだけれど、単純化していえば暗い「本当の自分」を押しかくして明るい「仮面」をかぶる以外に生き残る道はない、という硬直した考えを持っていた。
しかしまあ当然うまくいかない。内向気味の人間が明るく、軽く振舞おうとしたってムリがあるからどうしたって演技くさくなるのですね。下手な演技による明るさを出せば嫌われるのなんて考えてみりゃ当然で、あからさまに演技っぽい笑顔は、心から楽しんで「明るく」「笑って」いる人々の場を一気にウソ臭いモノに変化させてしまう効果を持つのだ。つまり、それは人間関係の潤滑油「笑顔」が突き詰めれば「嘘」「演技」であるというタブー、「笑顔の虚面性」(造語)を暴きだすことにつながる。極端な話、みんなが本気で笑い転げてる場で、それがツボに入らなかった一人が「ハッハッハッハ」なんて活字みたいなわざとらしい笑い方してたら、ふつう「ぜんぜん面白くねえよカス」というメタ・メッセージを読みとるでしょ。同じ現象が起きてるわけ。皮肉でわざとやってりゃいいですけど本人は無自覚だからタチ悪いね。

これは、内向的人間が外側の基準に無理やり自分を合わせようとすることから生じる歪みの最たる例でしょう。ぼくはまあ上記の失態を実際に犯すほど愚かじゃなかったが、外面に現れなかっただけで心情としては正直似たようなものだった(つまり外側のコードに従った集団の現象が起きるたびに「怯え」が走った。今もたまに「怒り」は走るが)し、なんかキョドってる大人しい人はきっと未だにその段階から抜けられないのだろう。「内向」「外向」という言葉のここでの定義を今更ながら説明しとくと、心理学的にいえば、本来は「内面の規範に従う」か「外側の規範に従う」かということらしい。内向的=口数少なめ、自信がない、消極的、暗い、、みたいな諸々の日常的使用法はここでは無視することとする。むろん100パーセントの外向性、100パーセントの内向性で構成されてる人間などいないだろうが、量の多いほうによって○向的人間というあてはめがなされるわけですね。外向的人間というのは、言ってみれば外側にある既存のコードに身を委ねることが自然と出来る人間であり、内向的人間は外的規範に合わせるのが下手、内的規範が確立されなければ動けない人間だ。これは、外的規範に合わせられないから発想・行動の動機として自己基準を確立するのか、すでにそれがあるから外側に合わせられないのか、「鶏が先か卵が先か」みたいなビミョーな問題ではあるが、外側のコードに怯えてる内向人間はそんなことにエネルギー使ってないで内側にもっといろんなもの貯めとけよ、と言いたい。つまり内向性そのものが悪いと捉えて「外向的にならねば!!」と力むのではなく、外向人間の勢力に気おされてその特質を上手く活かせてないのが問題だ、と捉えるほうがよっぽどスマートだとは思いませんかね。だいいち、せっかく「内」「外」という相対的な漢字が使われてるのに、そのどちらか一方の言葉だけに根暗・自信ない・自己主張できない、、みたいなネガティブなイメージがどんどん付与されるのってすげえ暴力的なかんじするんだけど。まあ確かにおれも自己主張下手だなって自分で感じるときはあるが、言わせてもらえば、お前らみたいにお手軽にアウトプット可能なテンプレ化された主張なんぞこちとら持ち合わせてないんだよ。似たようなことばっか言って何が自己主張自己表現じゃぼけ。走りすぎてますねすいません。

ぼくがそのことに気付いたのは、ちょっと情けないが他人に指摘されてからでした。つまり大学も後期に入って、大学つまんねえ、バイト見つからねえ、という溜まりに溜まった愚痴をたいしていままで喋ったことない人間にぶちまけたら、なんかウケてしまったんですね。内的基準、という話とはちょっとずれるが、あ、おれって「面白い」のか、おれの内側に詰まったこれらのモンて意外と他人にとっても価値があるんだ、という驚きがあった。だから内向的人間は、はやくそのことを自覚して、自分の内部にあるものの強度を強めたり、それをどうにか外部に表現する方向性を模索するほうが賢明だとおもうんだよね。外向的人間て外側のコードに従う人間なんだから、じゃあ彼らにこっちが作った規範に従ってもらおうじゃないの。ってのは言い過ぎか。過激すぎたし、まあ無理難題ですが、でも権力者とか組織のトップも隠れ内向人間(この文脈から言えば「隠れ」じゃないけど)が多いんじゃなかったっけか。親しくなった集団のなかでは自己主張激しい、ていうのも内向人間あるあるですね。内弁慶ってやつですか。まあ言うは易し、って奴でぼくも現状上手くいってるとは言い難いですけどもね。

結論から言っちゃえば、内向的性格は「損」なのか、について、以前どっかで「損だ」と書いちゃった気がするのだけれど、「損」というより「賭け」と言った方が正確だろう。やっぱり生きづらいことはこれはもう間違いない。「賭け」というのは、どんだけ外側のコードに惑わされすぎずに内面にストックを蓄えるか、強い規範を定立するか、そしてそれをどう上手く言葉で・行動で表現するか(なにせ既存の表現に乗っかれないから表現も困難なのだね)という難題(特に最後、、、)が待ち構えているからで、逆にいえばこれらを上手く処理すればたぶん、かなり、ザックリいえば、すごいことになる。なんだすごいことって。ぼく個人に関して言えば、インプットにばっか集中しすぎていて、個人の特性を「個人性」「社会性」に分けたばあいに前者に重きを置きすぎていて、行動の動機になる内的規範の確立がお留守でした。つまり行動力がない。行動したいのにびびってできない、というより(それも多少あるが)、そもそも行動するモチベーションがない。行動力があるのはイイコト、というのはまあ外側の基準でもあるが、これは正しいだろう、とぼくの直感が告げている。どうすりゃいいのか今あまり分かってないが、ま、とにかく経験を積むことでしょう。同語反復してる? しかし「経験、経験」とか連呼してるバカむかつくけどね。キミひょっとして経験がインフレしてないかい。


で、これから多数派たる外向人間のうちの一部のバカにキレたいのですけど、まあーむかつくねえーこいつら。根っからの外向人間、というより自らの内向性を「頑張って」「克服」(嫌な言葉だね)した奴に多いね。外的コードの土俵に上手く上がれたことがうれしくってしょうがねえの。で内向人間を「努力不足」「成長がない」って糾弾する。みっともないメンタルしてんなおい。だいたい「成長」って言葉もあんまり好きじゃない。なんでそんな捉え方が直線的なの? 「成長したい」って言葉聞くとどうしても現状の自己を否定して、あるべきひとつの目標に進んでいく感じをイメージしちゃうのだけれど、おれがへんなのか。ぼくは、自分が何なのかを考える過程で、「自分」という言葉の捉え方も考えたのだけれど、そしてこれは性格の可変性という問題にも通じる話なのだけれど、「性格は変わりうるか」ということに関しては、答えは「変わりうる」だろう。しかし「無限に」ではない。当たり前のことだが、これを当たり前と思ってない奴もいたりするんで一応。有限だが変わりうる、というのはどういうことかというと、まあ何の科学的根拠もないが、実感として、意識的に「これがおれの性格だ」と認識する「自己」の他に、潜在的な「自己」があって、これが新しい経験を通すことによって顕在化する。言いかえれば、変わるというより「自分」の引き出しが増える。で、使い分けできるようになる。もしこのイメージに「成長」って言葉をあてはめてんなら言葉のセンスを疑っちゃうわ。

単に他愛もない会話したり日常的に言葉を発することを「自己表現! 自己表現!」とかほざきだすのもこいつらです。だからお前らはポケットサイズの既存の言葉で戯れてるだけだって。それは「深い話」じゃなくて「深い風味の言葉を吐き出す儀式」です。で、こっちがその土俵に上がっていかないのを「自分に自信がないからだ」とか言ったりする。自信がないから無口(表現しない)なのだ! もういいからお前は「表現」しながら死んでくれ。あとはね、たとえば、こっちが内的規範に従って「やりたくない」ことを、「そんなの周囲は誰も気にしてないからやれよ」とかいって説得してくるのだが、「誰も」気にしなくてもこの「私」が気にするのです。っていうこの感覚は、たぶん奴らは絶対理解しないだろう。自己中、というのとは別次元の話してるんすけどね。

とはいえさっきも書いたが、ぼくはやっぱり「個人性」の方向に傾倒しすぎていたきらいがあって、やはり「行動」して「経験」を積んで、頭でっかちをなおさねばならないだろうとはおもう。「自分」のストックも正直いってかなり少ない。まあこれから自分がどういう人間になるのかはわからないが、少なくとも「人の輪に加わっていかないようなお前に未来はない」と言ってのけたぼくの某父親みたいな人には絶対ならないことをここに誓います。以上

聞き上手になりましょうってマジかよ

「つまらない」の反対語は何か、という問題がある。正解は2通りあって、「面白い」と「楽しい」なのだが、ぼくはこのふたつのどちらを「つまらない」の反対語として捉えるかでその人の価値観が現れるんじゃないかと考えている。ぼくは「面白い」派なのだが、なんとなく、「面白い」派の人間は不幸になりやすい傾向にあるんじゃないか、人生は「楽しく」なりえても「面白く」はそうそうなりえないんじゃないか、とみている。
どういうことかというと、大雑把にいえば「楽しい」は主観の問題、「面白い」は客観の問題である、ということだ。「面白い」というのがどういうことかについては「分裂は笑いを生む」のところで書いたけれど、要するに通常想定される「流れ」から逸脱すると、人はそれを「面白い」と感じるのだから、人生を「面白い」と感じるためには、受験して、会社に入って、結婚して、家庭を築いて、という「流れ」から逸脱し、かつそこで何らかのものを再構築しなければならない。そんなことカンタンに出来ます? ほぼ無理ですねえ。じゃ、「楽しい」人生は、といえば、「楽しい」は当事者の参加意識、所属意識といった主観の問題だから、平凡極まる人生であっても楽しむことはできる、のである。「面白い」派のみなさんは、基本的に行動力がなく、観察する側、頭でっかちのひとが多いんじゃあないでしょうかね。あとはコミュニティへの所属意識みたいなものが薄いとか。勝手な予想ですけどね。

ぼくが何故大学に入学してからこれほどまでに集団内でのコミュニケーションに苦しんだのかというのも、環境が「面白い」派が多数を占める空間から「楽しい」派が多数を占める空間にガラッと変わったからじゃないかと考えている。つまりコミュニケーションの質(面白さ)云々よりも、まずはコミュニティへの所属意識(盛り上がり)を優先する空間である。
コミュニケーションというのは、当然だが情報の発信者と受信者がいて初めて成立するわけだけれど、発信能力と受信能力双方とも高ければ問題は起こらないが、現実としてなかなかそうはいかないからどちらか一方の能力を重視するようになる。で、じゃあ「面白い」派のコミュニケーションスタイルがどんなものになるかというと、むろん「面白さ」重視なのだから発信能力に依存することとなり、「楽しい」派は盛り上がりを優先するのだから、そのコミュニケーションは受信能力に依存することになる。このことを如実にあらわすエピソードをひとつ紹介しておくと、高校時代、まあぼくは全然親しくなかったのですが、A君というスベリキャラがいて、彼は一発ギャグを持っていた。もちろんスベるための一発ギャグで、沈黙が発生した後、いかにそのつまらなさを面白くイジるかが高校のコミュニティーでは重視されていた。さて大学に進学したA君、またいつもの感じを期待して持ち前のギャグを飲み会で披露しましたとさ。で、結果どうなったか。大爆笑である。これには本人もえ、え、ウケちゃったよ!!と驚愕したそうで、もうその話訊いたときにはもうそりゃあおれらの立場なくなるわけだわなって感じでしたね。

さて問題は、世の中でどちらの派閥が大きいのかということなのですが、まあお察しの通り、「楽しい」派による受信能力重視のコミュニケーションスタイルなんですねえ。残念ですねえ。たとえば、「口下手」「雑談 苦手」みたいなキーワードで検索かけてもらえばわかるとおもうのですが、「会話が苦手で、参加できません。どうしたらいいですか?」「聞き上手になりましょう!」といった問答が複数回繰り返されております。
この「聞き上手」推奨の態度こそまさに受信能力偏重型コミュニケーションの現れで、まあ回答者たちに決して悪意はないのでしょうが、しかし一方でこの受信能力への過度の依存こそが孤立気味の人間を生み、くそみたいにつまんねえのに笑い声の発生するあの寒々しい状態を生みだしてるんじゃねえの、とは思うのだ。ぼくは面白くもないのに笑顔を浮かべる術も最近身につけましたけど、輪の隅っこでニコニコしてたって得られるのはとりあえずコミュニティに所属してるという追い詰められた安心感だけ。正直、ぼくは発信能力が高くて受信能力が極めて低い人間なのだが(感想文とかめっちゃ苦手。センサーが反応しないとなんにも思いつかない)、「おれは中学時代***だった」「あたし昨日***だったんだ」みたいな事実報告されましたところで「ふうん」「へへえ」「ほほお」以外のなんの反応も浮かばない、っていうかなんでお前ら主観を添えないの? それが「好き」とか「嫌い」とか「だるい」とかなんでもいいけどそういう感情読みとれないとこちらとしてもなんとも申し上げようがございませんのですが、あ、そうか、君らにとって「嫌い」という感情は即「悪」と断定されるんでしたっけね。何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!!!でしたっけ、別に「好き」も「嫌い」も自由に語らせてもらうわ。ヴォケ。なんで「好き」のほうが高級な感情みたいな扱いなのww なんなら俺っちレイプ大好き!!とかでもいいんスか?スか? 
話それましたけどね、受信能力偏重型コミュニケーションでは、情報は丸投げされ、「つまらん」という意見表明は禁止され(だってツマランと感じちゃったら聞き下手レッテル=コミュ無能力レッテル貼られちゃうもんね)、クソつまんねえのにキャッキャうふふせねばならない地獄絵図が現れます。基本的に彼らのコミュニケーションは言ったもん勝ち、しゃべったもん勝ちみたいになってますが、発信能力の高い人間は、情報価値は文脈に依存することを知ってますからむやみやたらと言葉を垂れ流したがりません。結局小説家やら芸人やら、発信能力の極めて高い人々が私生活では暗い・無口ってのはこういうところに起因するんじゃないか。ね。そう考えると面白い芸人はなんで暗い人が多いのかつながってくるっしょ。

ま、受信能力偏重を悪のように書きたてましたけど、もちろん発信能力偏重にも問題はあります。まず、まあ実際に中3高1くらいの時期にありましたけど、ツマラン発言すると「だからなんだよ」「スベッたんじゃね」的な攻撃を食らうんですね。やりすぎるとみんな発言するのが怖くなってきて誰もしゃべりたがらなくなるし、フォローするやさしさもなくなっていく。これもダメですね。まあここまで極端なのはみんな途中でダメだと気付いてやめましたけど、実際そんな環境にいたから自分発信でモノをいうことが少なくなったということはありそうな気がする。「こんな雑な情報でいいのか」って発言してもちゃんとある程度会話が続くとこなんかは「楽しい」派のみなさんさすがです。まあ何事もバランスですね、っていう究極のつまらない結論でこの記事を締めたいとおもいます。

コミュニケーションについてのアレコレ

前回、「笑い」を意識するのをやめたいのでここに記事として書く、と宣言して、つれづれなるままに書いたらほんとにそれについて考えなくなった。すげえすげえ。まあ正確には「まったく頭から抜け落ちた」わけじゃなくって相変わらず「面白い」ということにこだわっちゃったりしているのだが、ヘンに「おれは笑いのセンスあるんだ」って自意識過剰に力むことはなくなったようにおもう。これは無条件にいいことだね。単に元に戻っただけかもしれないけど。
でも固定して吐き出すから、自分の思考が明確になる、そして場合によっちゃ思考が足踏みをやめてもう一歩前にすすむ、ということは確実にあるのだ。言葉の力ってほんとうはこういうところにあるんじゃないか。ぼく、言葉の力、という言葉むかしっから嫌いなんですけどねー。言葉の伝達機能的側面を無邪気に信じてるかんじがするからだ。結局、言葉はまず他人のためじゃなくって自分のためにあるんじゃないかとおもうのだけど、実際のところどうなんですかね。それがヲナニーブログを自称する所以でもあるし。ぜんぜん更新してないけど。まあどうでもいいか。

今回何について書こうかというと、まあ特に体系的に書くこともないので、コミュニケーションということについてとりとめもなく書いていこうとおもいます。

会話、雑談の目標は何か、と言えば、たぶん「笑い」だろう。「他人の価値観を知る/勉強する」とか言っちゃう奴もいるけど、あんな即興性と簡潔さが求められるコミュニケーションスタイルに何を求めてるわけ?wと鼻で笑いたい。そんな「深い」ことが知りたいんだったら本読めよ。よっぽど「勉強」になるぞ。だからそうじゃなくて、会話は、まあこう表現するとどうしても大袈裟だが、結局のところこちらの言葉に対して相手がどう反応するか、どういう言葉を返すかというところに互いの「個」(社会化されきらない部分)が現れるのがだいご味なんじゃないかとおもう。「個」が立ちあがると俄然面白く、濃くなってくる。「笑い」が自然に発生する。
「笑い」を意図的に産もうとすることは難しい。謙遜する気全くないのだけど、ぼくは結構むかしから集団のなかで笑いをとることは多くて、「お前面白いな」というのだって大学に入ってから急に言われはじめたわけじゃなく小学生時代から何度か耳にしてはいたのだが、思い返してみるとほとんど気にも留めずに聞き流していた(あえて聞かないようにすらしていた?)し「笑いをとろう」と考えたことも一度もなかった。それは要するにその会話のなかで自分が面白いと思ったことを面白いと思ったように吐き出していただけ、要するに無意識に「場の空気」に従って笑わせていただけで、(プロの芸人は知らないが)世の「おもしろい人」もだいたいがそうなんじゃないか、とおもう。「笑いをとりたい」というよりは「面白いことを言いたい」のである。笑いが起きる、というのはあくまで二次的な要素でしかなかった。

しかし、日常的に「笑い」の存在を意識するようになって気がついたのだが、意識的に笑わせようとしてるひとって多いんすね。「面白いことを言いたい」人ではなく「笑いをとりたい」人、つまり完全にベクトルが外に向いてる人である。で、大抵つまんない。一応もう一回言っとくけど全然おもしろくない。まじで。やめてくれ。盛り上げようという善意から来るものなんだろうけど、はっきり言っちゃえば「盛り上げよう」という意識がもう既に間違ってると思うのだ。何がテンションぶちあげていこうぜだよバカが。お前の発言で一回も笑った事ねえよ。このへんがぼくと世間との大きなズレの原因かもしれないのだが、ぼくがいままで誰かと会話していて楽しかったときの実感として、波長があえば「勝手に盛り上がる」のだ。だから、おもしろい会話ができているとき、誰かひとりだけが面白いなんていうことは本当はないのである。サッカーのことよく知らないのに勝手に例えちゃうけど、別にあれってシュート決めたやつだけが上手なわけじゃあないんだろ。それと一緒だ。別に笑いとった奴だけが面白いわけじゃない。というか、言い方かえればある程度面白い(とぼくが思う人、つまり波長が合う)人が相手じゃないと笑いがとれない。なんでもないような会話におけるぼくの返しの下手さなんて異常です。平均以下なんじゃないか。ぶっちゃけ言えば「ふうん」「へえ」「なるほどお」で全部終わらせられる自信があるからね。やらないけど。

まあ、ぼくの尋常じゃない聞きベタ具合はこれから生きていく上で結構シャレになんねえなと思っていて、だって楽しくしゃべれるのが愚痴と自虐と下ネタとメタコミュニケーション(コミュニケーションそのものに自己言及すること。その場の空気の状態をあえて言語化するとか、会話におけるあるあるネタとか)ばっかりですからね、これはまずいです。でも「盛り上げよう」派の奴ら、まあ俗にいうリア充とかぶるが、「あからさまなボケ→(ツッコミ)→周囲の笑い」というあのパターンはもういい加減やめてくれ。おいてけぼり食らうおれが悪いんか。周りの奴ら、ゼッタイ面白いとおもってねえだろ。「笑って」という無言の要請に従って笑ってあげてるだけ。アハハハハ、とか、ふつーそんな活字にできる笑い方しねえから。「笑わせている」「笑われている」の二分論なんてもう古い。お前らは「笑ってもらってる」んだよ。あのカンジでどんどんおれがネクラのレッテルを張られるパターンも多い気がする。少なくとも印象は悪いだろう。

ぼくは、でも、盛り上がらないならそれはそれでしょうがないと思っている。別にバラエティ番組を作っているわけじゃない。集団が本当に面白そうに笑ってるのに自分的にぜんっぜん面白くない、という場合、まあ結構これ精神的にキツイが、あきらめましょう。自分が真におもしろいと思って言ったのにヘンな顔されるケースもあきらめるしかない。波長、要するにどこに刺激を感じるかというポイント(笑いのツボとか怒りのツボとか)なんて変えようがないし、変える必要もないのだ。多数派に合わせる必要もない。もし、自分にとってどうしようもなく肌に合わない環境に入り込んでしまってどうしようもなくなったときは、もう環境のせいにして開き直ったほうがいいのである。みなさん大嫌いな「人のせい」「環境のせい」だ。「自己責任」「権利を主張する前に義務を果たせ」「人を変えたければまず自分が変われ」と言いたがりなバカがここぞとばかりに怒りだすだろうねw 自分がした選択した行為に対する結果なんて究極的には自分が負う、追わざるをえないのになんで赤の他人のてめえらが「自己責任」とかほざいてしたり顔なんだよ。社会のせい、なんて言われたら社会の一員である自分も責められた気になって不安なの? 津波の犠牲者すら自己責任とかいってる奴いるんだぞ。頭おかしいのか。話だいぶ逸れたけど。
落ち込んだりへこんだりしたら、「人のせいにする」ことで平穏を保つという選択肢はそんなに悪くないんじゃないか。落ち込んだ時点でもう自分の悪い部分は(過剰なほどに)見えまくっているのだ。あとは「おれは別に悪くない、あいつらが悪い」と開き直るのみ、である。ほんとは別に誰が決定的に悪いわけでもないのだが、むこうは多数派として数の力で圧倒してくるのだから、心のうちで連中を悪に仕立てて堂々とするのは方法としてアリでしょう。その上でコミュニティの法則に譲歩できるとこはすればいい。ひとが変わりうるのは、最初からその要素が内部にあって、隠れていたものが表面化するぐらいしかない、とぼくなんかはおもうのですが。
本当に努力すべきは環境選択のほうだろ。環境適合をやたらオススメしてくるけどね。連中は。世間の言葉の集合体は。

分裂は笑いを生む

 なんか、大学で「お前おもしろいな」と頻繁にいわれつづけて、同じような状況にあるらしい高校の友達と「おれらってどうも笑いのセンス高いらしいぜ」的なイタい(でも気持ちよくてやめられない)会話を続けるうち、なんかかなり笑いに対して自意識過剰になっている自分がいます。しかも結果スベることも増えた、気がする。やばいやばい。
 最近この「笑いとは何か」「面白さとは何か」とかいうことを中心にモノを考えるようになってきていて、結果「お、このくだりおれウマいこと言えそうだぞ」という自意識が、皮肉にも「面白い発想・フレーズ」が脳から降りてくるのを阻害する。プロの芸人がこの自意識をどう処理しているのか気になるところだけれど、別にぼくは芸人でもないしそれになる気もないから、いい加減笑いのことを考えるのをやめたい、ので、ここに書く。言語の形に固定して、吐き出すと、それについて延々考え続けるぼくの悪いくせがなくなるので。木下古栗についても記事にしたらあんまり考えなくなったな。いや今でも一番好きな作家ですけど。

 

 文学について、ぼくは最近考えることがなくなって、それが「笑い」にとってかわるようになったんだけれど、ぼくにとって両者はそれほどかけ離れたものではない。というか、文学はほんとにさまざまな(というか多分無限の)表現の可能性を内包しているように思うのだけれど、ぼくがとりわけ好きだった領域(中原昌也とか、前田司郎、木下古栗など)、つまり内容(WHAT)ではなく方法(HOW)にこだわる表現の仕方が、笑いをとる、ということと非常に近接しているのである。
 笑いをとるという行為は、「いかに表現するか」という問題を厳密に要求する。
 それは単に自分の生んだ(発見した)「面白いこと」をどんな言い回しでアウトプットするかが重要になるというだけでなく、間や声のトーン、表情によってまるで笑いの度合いがかわってくる、という意味において、だ。文学はある意味非常に作者本位な表現手段であるから、どんな題材をどのように料理しようが、自由だ。そこに理解のあるもの、無意識のうちでそれを「面白い」と思った者だけが作者の後についていけばいいが、笑いは、当然だが相手を笑わせる(大袈裟にいえばこちらの脳フィルターを通して見た「世界」に相手をひきずりこむ)行為だから、相手をリードしながらも、彼に歩調をあわせるような作業が必要となるのだ。
 もちろん会話のなかで即興的に笑いを生み出すとき、ふつう聞き手の理解に歩調を合わせるという意識はなくて自然にそれをやっているものなのだけれど、その発想やフレーズがまだ脳内の片隅に残っていて、また違う時違う誰かとしゃべっているときに、あ、こないだのあのくだり応用できるぞ、となる場合、この「歩調をあわせる」という作業を意識する必要が出てくる。つまりアドリブでひとを笑わせるときには、笑わせる自分もまたどこに行きつくかが見えていない状態だから、一歩ずつ、それこそ相手の反応から適宜進行方向を決めていくしかないのだが、以前やったくだりを違う会話に応用するときには、いわば笑わせる自分にはもう行きつく先が見えている。
 このとき、だいたい二つの間違いが起こる。
 ひとつは、焦って、行きつくまでの過程を無視して到着地点にジャンプしてしまう。もちろん相手はおいてけぼりを食らい、戸惑う。笑わすどころか戸惑わせちゃうのである。スベッたってやつですね。んで、もうひとつが、誘導が下手、要するに相手の反応から自然に目標地点へ導くことができていない。相手は笑うには笑うが、アドリブ時の爆発力はない。これはまあある意味必然で仕方がないことなのだけれど、自分には到着地が見えているからどうしても「ウケ狙い」感が出ちゃうのであるね。
 笑いに走る時、このウケ狙い感(用意していた感)はほんとにクセモノで、聞き手はこの臭いをかぎとった途端に話の内容に集中できなくなり、結果笑わなくなる(正確には愛想笑いっぽくなる)。同じ理由で文章による笑いも、間やトーンといった要素が欠けていることもあるが、それは「用意されたもの」でしかありえないから、格段に難易度が高くなる。メールでウケ狙いなんて言語道断です。だから決めのフレーズの前にちょっとわざとごにょごにょっと口ごもると、聞き手の期待感が高まるしアドリブ感もでるから、逆によかったりする。期待感を高める、というのは「ちょっと待ってください」「大先輩ですけどすいません」と一旦空気を止めてからツッコミを入れる、みたいなのと同じだ。雨上がり決死隊の宮迫がよくやるやつ。

 
 つかこの文章つまんねw これ読んだところで面白くなかった奴が面白くなるなんてありえないからね。仮にあるなら「笑いにウルサイつまんない奴」が誕生するだけです。まあいいや。続けます。次。

 
 人はどういうときに笑うのか。もちろん笑うためにはどういう言葉が選ばれるかというワードセンスが一番重要なのだけれど、表現内容の面からいうと、一般的には「緊張と緩和」だとか「期待と裏切り」といわれている。まあこれは、たぶん正しい。けれど、より大きくいってぼくは、「通常想定される『流れ』からの逸脱」だと考えている。流れ、はまあ要するに社会通念やら常識やらベタやら、要するに「ありきたりなもの」、「こう来たら→こう」というステレオタイプ、ぼくが以前必死こいて説明してきた「物語」というやつとも合致する。と、こう考えるとまたぼくの好きな文学作品の傾向との共通点が見えてくるのだけれど、つまり「笑い」は、「流れ」から逸脱することで「流れ」を可視化し、破壊/強化する作用であるということができる。
 たとえば、大喜利No.1を決める一本グランプリを見ていて思ったのだけれど、笑いの基礎となるものは、やはり「あるあるネタ」である。「あるあるネタ」は、ふだん我々が何気なく見過ごしている事柄を、言語化する。確かに視界に入っていたのに、うまく言語化されていなかったものを意識の俎上にひっぱりだす。大喜利では、この「あるある」あるいはステレオタイプなセリフ・会話を、いかに強引に、かつ華麗にお題に結び付け、異物として提出するかが問われることとなる。結びつけられる事柄が離れているように見えれば見えるほど、笑いは大きくなるだろう(感傷的なセリフと下ネタ、など)。これは中原昌也が「私のパソコンタイムズ顛末記」で行ったことと非常に似ていて、まあ彼のようにその言説の形骸化を皮肉って破壊する、とまでの意思は多分、というか絶対彼ら芸人は持っていないが、それでも異種のものを組み合わせるという「創造」が行われていることは、共通する。
 「流れ」からの逸脱、「流れ」への回帰、というこの反復が笑いを生むのはまあまず間違いなさそうなのだが、結果として笑いは、この「流れ」を強化することとなったり、反対に破壊することとなったりもする。
 強化する笑いの例としてはまずダチョウ倶楽部があげられるか。あれはちょっと特殊な「流れ」を独自に作り上げた感が強いので、最初見たときは実はそんなに面白くない。見知らぬ「流れ」だし、かといってそこまで日常から逸脱しているわけでもなく中途半端だ。が、あの「流れ」をいったん見る側が把握すると、「お、くるぞくるぞ」「やっぱり来た」という安心感・空気の共感から笑う。「こんなのおいしいわけが……パクッ、う、うまい!!」というこのベタなギャグも同じ構造を持っている。
 漫才も、ツッコミが目立たないタイプのコンビはこの要素が強い。ボケが「逸脱」、ツッコミが「回帰」の役をになうことになるのだが、この場合流れ=一般的感性の方が強大であるから、どうしてもボケはわざとらしくなる。不自然で、ウケ狙い感が強くなる。一方でツッコミは「流れ」の体現者として在るわけだから、個性がない。徹底して「一般人」である。ここでは「ボケ」は単なる逸脱した「ヘンなもの」であり、「まともである」ツッコミを聞くことで聞き手は「流れ」の側にとどまっていることを確認し、笑い、そこにとどまり続ける。内的な世界は揺らがない。
 一方で、破壊する笑いは、ときに(「流れ」の外に在るという意味での)ボケが、「流れ」に対するツッコミであったりする。つまり、「流れ=正しい」「逸脱=ヘンなもの」という構図が崩れ、等号がひき剥がされる。(正しい)ツッコミと(おかしな)ボケという明確な区分がなされないのだ。ビートたけしは「笑いの根源は差別だ」といった発言をしたらしいけれど、正確には「笑いとは攻撃である」ということだとおもう。攻撃の対象が「流れからはみ出した者」であるとき、「流れ」のなかに在る者(多数派)がはみ出し者(少数派)を笑うとき、それは「差別」となる。が、攻撃対象が「流れ」そのものとなるとき、その攻撃が正当(にみえる)ものであれば聞き手は、「流れ」の正当性が絶対化されていた内的世界が揺らぎ、相対化が起こり、笑う。あるいは「流れ」に囚われる自分の滑稽さを浮き彫りにする自虐的な笑いによっても、「流れ」が内側から突き崩されるようにして、揺らぎは起こるだろう。
 いまのところこれが一番顕著なのがブラマヨの吉田かなあ、と思う。
 ブラマヨ吉田は攻撃的でかつ自虐的である。バラエティでよくネタにされる「ケチ」で「女好き」で「卑屈」で「小心者」なブラマヨ吉田の姿は、もちろんテレビ用のネタであると同時に、おそらく彼自身の「本音」である。だから強化するタイプの笑いと違って、ウケ狙いの臭みがない(吉田自身も意識して笑いをとるとき「真顔」である)。強化する笑いの場合、笑わせる人間は単に「逸脱したもの」を演じているだけであり、本心は「流れ」の側にあるが、破壊する笑いはほとんど「本音」だ。しかし、ただ単純に本音をいって周囲で笑いがおきるだけなら、これは「笑わせる」ではなく「笑われている」ことになるだろう。実際両者はまあ紙一重でもあったりするのだが、破壊的な笑いを提供する人間はその「本音」が「流れ」から逸脱していることを、強烈に自覚している。
 これは笑わせる人間が日常や人間関係のなかにある「流れ」を強烈に意識していないとできない所業で、ここでは彼は、「流れから逸脱する自分」と「流れの中にいる自分」に分裂している。この内部分裂状態が笑いを生む。「流れ」を自覚している人間は、そこからかすかに逸脱した(しかしほおっておけば見過ごされるような)行為に的確にツッコむことによっても、「流れ」に囚われる自分を披露することによっても、「流れ」の矛盾を指摘することによっても笑いを生むだろう。

 ていうね。流れ、流れと連呼しましたが「空気」とも非常に近い意味かも。笑いは攻撃である、というのは結構以前から感じていたことで、笑いが起きて盛り上がる場ってはたから見ると結構いやーな感じがするんだよね。笑う、という行為自体は楽しくて華やかだから勘違いしがちなのだけれど、笑い話というのはその源となった経験はだいたいネガティブだ。自分が楽しかった話を楽しそうに話せば聞き手も楽しいと思い込むひとがたまにいるのだけれど、まあこれは端的にいって誤りで、楽しくなかった、不快だった経験のほうが話そのものは楽しくなる。
 何かを食べにいって、それがおいしかった。「どこどこの店でラーメン食べたんだけど、おいしかった」ふーーーん、である。じゃあ今度食べに行ってみるか、くらいにはなるし、別にそういう話をするなということは全くもってないのだけれど、話が盛り上がるのは、絶対に「おいしくなかった場合」だ。「腐ったバナナみたいなにおいだった」「湿ったトイレットペーパー食ってるみたいだった」といったマズさの表現から、期待との落差、食べた直後の反応、まで、話が盛り上がる要素がたくさんでてくる。
 自己啓発本的なあれを見ると、「暗いネガティブな話を聞きたい人はいません。明るく前向きな話をしましょう」的なアドバイスがあったりするんですけど、あれはまあ、アホですね。トーンが暗いのは(原則)ダメだが、明るい口調での愚痴や自虐はうける。まあ限度ありますけど。

 

 と書いていて悲しくなるのはぼく、基本的に集団になじめない人間なんですよねー。だいたいの確率で浮く。「面白い」とか言われつつ結局大学でも浮いてる。まあみんなと仲良くやれる人間はこんなブログ書かないか。しかしながら、ここからはほんとにただの愚痴になるのだが、例外をのぞけば大学のみんなとのコミュニケーションがぜんぜん楽しく感じられない。つまり笑えない。笑わない、楽しい会話もあるのかもしれないがぼくは基本的に「楽しい」と感じる感性が欠如している人間で、つまり相手を笑わせ、相手に笑わせられないとなんか刺激が足りなくて退屈なのである。
 というのもみんななんか「いい人」なのだ。ふざけるしバカなこともやるが逸脱しない。飲み会とか、ハメをはずすべきときにちゃんとはずしてるのを見てるとマジメなんだなあと思うのだが、将来とか社会とか「深い」話をするときには急に、なんかあからさまに「マジメ」なのだ。よくいえばメリハリがきくということなのだろうけれど、ぼくはどうしてもそのメリハリ感が嫌いで、以前の記事でも「普段はバカやってるけど実は知的なワタシ☆」というフレーズで揶揄させていただきました。なんであんなにON・OFFはっきりさせたがるのかね。いくら盛り上がるべき、笑うべき場でもツマランものはツマランし、だいたいあんな分断されたコミュ二ケーションが要求される「飲み会」なんて場で本来の笑いなんて生まれるわけがない。文脈を積み上げてこそ笑いは発生するんじゃないのか、こいつらホントに面白いと思ってんのか? とまあ常々思っていて、でいざぼくがしゃべれるときに、しゃべりたいことを、しゃべりたいようにしゃべったら、こっちが若干引くぐらい笑ってる。いやまじかよ。しかも「あんときの話面白かったよ」とか未だ引きずってたりするし。それを他の奴の前でもしゃべらそうとするし。下手か。コミュニケーション下手なのはお前らなのか、おれなのか。つってね。
 はいだんだん性格悪い感じになってきましたー。が、続けるが、「面白い」とおれを褒めてくれるのはうれしいのだけど、何故その「面白い」おれの話にもっとのってこないのか。笑うばっかじゃなく笑わせてくれ。別にそんなに沸点高いつもりもない。
 大学入ったばかりでほんとに場になじめなかったとき、ぼくはなんで自分がここまで話に参加しない(できない)のか不思議で仕方なかった。見た目が暗い&人見知りという要素もだいぶデカかったと思うけれど、それにしてもひどすぎないか。いままで口下手な人間として生きてきたつもりもないのになんで? で、まあ、結論として、みんなの話す話の中身が面白いと感じられなかったからなのでした。ぼくはこの一年でだいぶ自分の「聴く力」とやらのなさを実感していて、つまり興味のない話、ささいなきっかけを種に話を膨らますことができない。なんの言葉も降ってこない。これは致命傷で、まあ、ぶっちゃけ今もなおっていないのですがw


 うわー。いいのかこんなこと書いちゃって。だいぶイタいぞ。まあいいか。例外もいます。もちろん。一般論でした。