「勉強できる=仕事できるとは限らない」ってくだりもうそろそろよくないっすか

高学歴は勉強ばかりしていて柔軟性・社会性が足りない。仕事で意外と使えないやつが多い。

この言説の真偽のほどはわからないけど、まあなんとなく高学歴だからって必ずしも仕事で有能とは限らないってのは想像にかたくはないけども。ただねえ。この事実を聞いてエエッマジで!!!って驚く奴が今どれだけいるのかって話ですよ。いつまで言ってるんすか、それ。もう聞き飽きたんだよね。みんな知ってるよ。誰も反論しないから落ち着いてって言いたい。

基本的に年配の人からこの発言が飛び出すケースが多い気がする。同じ失敗でも、勉強の出来がいいとただそれだけで、ルサンチマンに満ちた口調で「勉強ができるからって.....」とこう来る。やーぼくも何度か言われましたね。小学校のときにね、なかばトラウマですけど、なんかの作業の時間に友達とふざけてたら担任だったおばさん先生に廊下に呼び出されて説教されて、まあ、そこまではよかったんすよ。その後何が起きたか。一緒にふざけてた友達はすぐに説教から解放されたのに、ぼくだけ廊下に残され重ね重ね「勉強できるからって調子のんな」的な説教を延々されました。帰りの会的なあれでも同じ話をされ、「ねえ、君のことだよわかるう?」と粘っこい口調で言われました。一体なんだったんだアレは。おれがなんかしたのか。
それとうちの父(早稲田卒)もたまーに東大卒の部下をバカにしますね。頭が固いだのプライドが高いだの、云々。ぼくに対してもちょくちょく、「本ばっかり読んで人生をわかった気になるな」的な説教をしてきます。ははは。まあ教養主義として文学を読む時代で育ったんだろう、と「上から目線」で言っておく。今の時代も若干そのきらいはあるけどね。

あくまで想像にすぎないわけですけど、きっと彼らが育った時代は露骨なまでに「勉強ができるか・否か」が重視される時代だったんだろうなあ。成績至上主義。勉強ができない、ということでいろいろと不便を被る。東大卒ということで即採用。みたいな。知らんけど。今よりずっと学歴偏重社会だったことは間違いないだろう。そういう時代においては、「勉強できる=仕事できるわけじゃない」という発言はアンチテーゼとして有効だっただろう。まあ学歴至上主義真っ盛りの時代に勇気出してそんなこと言っても「低学歴の嫉妬乙ww甘えるな」と一蹴されて終わりだったんでしょうけど、でも、いやだからこそそういう言葉は吐き出される価値を持つんじゃないのか。学歴信仰が崩れつつある今うれしそうにそんなこと言われてもねー。
前もどっかに書きましたけど、今は信仰が学歴→コミュ力へとゆっくりシフトしている途中なのだろう。コミュ力がある=仕事できるがなんか定説になりつつある(そのうち「コミュ力がある奴が優秀とは限らない!」て言われる時代が来るんですかね)。となると一番の犠牲者は、コミュ力のない高学歴、というところか。いままで勉強することが人生においてもっとも重要だと信じて東大に入って、あげく、「コミュ力不足」の一言で切り捨てられる。どころか「勉強ができる」ということでかえって一層軽蔑の対象になるというね。こわ。
だいたい、「仕事できない」って括り方が雑すぎないか? 仕事ったっていろいろあるんだから、求められる能力もまた多様なんじゃないの。まあ新卒しか採用しない(つまり一度就職したら再出発がきかない)のがこの国だから、「この仕事が自分に向いていないだけかも」って発想は無意味なのかもね。「甘え」「ゆとり」なんていわれちゃってね。
はは。ゆとりだってさ。「お勉強ができるからって優秀とは限らない」とかいっといて、今の若者がクソなのは「ゆとり教育」でお勉強時間が少ないからなんだって。そうですか。どっちかにしろよ。(その仕事において)無能な高学歴の若者を見つけると一方で「勉強ばっかしてるからだ」とバカにし、他方で「お勉強が足りないからだ」と糾弾する。もうなんか錯乱してるようにしかみえません。一体「お勉強」と「人生」をどう関係付ければいいのか。そういう説明がかつてなされてるのを耳にしたことがないんだけど。自分で考えろってことか。出たね。お得意の。自分で考えろ。出ちゃったね。

あーあ。おれはどうすんだこれから。学歴はまあまあ、コミュ力なし、協調性なし、第一印象最悪(けだるそう、暗そう、こわい、らしい)。社会に出たくない、というか社会がおれに出てきてほしくない。そういやこないだ、キャンパス内歩いてたら「おれは社会の歯車になりたくない」って話してる男がいてニヤニヤがとまりませんでした。社会の歯車なんて言葉をリアルで使うやついるんだ。将来どうするのか、きっと彼なりにすごく悩んで、悩んで、悩んだ末に出てきたのがこの紋切り型。他人の言葉をそのままトレースするだけ。すごく「歯車」になる才能に満ち溢れているなと思いました。