重松清「桜桃忌の恋人」(日曜日の夕刊)

重松清の小説を初めて読んだのは確か中二の終わりごろだったと記憶しているわけですが、当時、とにかく衝撃でした。だって、いままでハリーポッターだとかダレンシャンみたいなファンタジーしかまともに読んだことなかったわけですよ。もちろんハリーもダレンもいっぱい人が死んでダークな部分がたくさんあるわけですが、重松清の小説にある暗さはファンタジーのそれとはまるで違う。ぜんぜん違う。
どこが違うのか。
リアリティーが、である。
作中で描かれる登場人物は特別な能力を持っているわけでも、大きな不幸に見舞われるわけでもない、しかし何か(ありきたりといったらありきたりな)悩みを抱え鬱々と過ごしている、要するに「普通の」市井の人々である。その題材の中にときどき、いじめ、という問題が出てくる。「ありきたりな悩み」というカテゴリに「いじめ」が入るのかというと少し誤解がありそうですけども、おそらく程度の差はあれ殆どの中学・高校ではいじめという問題が発生しているはずで、その意味では「いじめ」も日常的な(小さい、深刻でない、という意味ではない)悩みとして認識されてもいいんじゃないかとぼくは思うわけです。

で、このいじめの描写がたいへん重い。読んでいて息苦しくなってくる。被害者側の混乱、プライド、怒りなどの心理の描かれ方は特にリアルで、いじめに遭ったことのないぼくのような人間でも胸が苦しくなるような、過剰でも過小でもない(つまり、リアルな)暗さがある。要するに重松清は、「いじめ」という過酷な現実を描くにあたって、一切妥協しないのだ。オブラートに包まない。すべてさらけ出す。まあ、「いじめ」を単純に「ゲーム・娯楽」とだけ捉えているフシがあって、そういう面はなくはないがもう少し事態は複雑だと思うけれども、作者が作品を通して描こうとしているのは「いじめの構造」とか「解決法」とかそういった類のものではおそらくないから、このへんは大した問題ではない。

じゃあ、物語全体が暗いか、というとそうではないのが重松清のすごいところなのだ。むしろ読後感は明るく、清々しくさえある。たぶんこのあたりが重松清の圧倒的な人気の理由だと思うわけですが、じゃあ、この「明るさ」の正体は一体なんなのだ、という話になる。ぼくはこの明るさ、清々しさの原因を「無根拠な肯定感」であると考えるわけです。なんか誤解を招きそうな言葉ではあるけれども。
たとえば「ナイフ」「ビタミンF」あたりを読むと顕著だけれど、収録されたそれぞれの短編はだいたい、主人公およびその友人・家族がいじめに限らず何らかの問題を抱えており、その今まで潜んでいた物事の病理が現実と衝突することで一気に噴出し、とりあえずはそれがいったん収まる、というところで幕を閉じるという構造になっている。何かが根本的に解決されるわけではない。大きな波乱はとりあえず過ぎ去って落ち着くが、その根っこにある問題はほとんど手つかずのまま放置される。にもかかわらず読後感はきわめて良い。なぜ? 主人公が、その感情のレベルにおいてすこしだけ「前向き」で「希望的」になっているからである。その肯定感に、根拠はあるか。おそらくない。いじめ小説に限って言えば、いじめがどうして起きるのか、それをいかに克服すべきなのかなんて作者自身もまったく分かっていないはずだが、それでもなお、それらに苦しむ人々を弱さも卑怯なところも含めて肯定しているのだ。これは一歩間違えれば、どうすればいいかオレっちにもわかんないけどまあガンバって、という非常に無責任な発想になりうる。でも重松清の場合そうはならない。何度も書いている通り、「いじめ」という現実をとりまく過酷な状況を、ごまかすことなく見つめ、描いているからだ。実態はここまで厳しく、絶望的だが、それでもなお、とこう続く。

ぼくはこの発想法を逆接的思考と呼びたいわけです。つまりフツーだったら、こうこうこうすれば解決されそうだから、だから希望を持とう、前向きに努力しよう、という順接的思考でいくわけですが、逆接的思考の場合、解決はされないかもしれない、努力は無意味になるかもしれない、それでもなお、とこう続くわけです。逆説的思考は手に入れられれば強い。もうほぼ最強ですよ。だってそもそも無根拠の上に成立したものだから、根拠を突き崩される心配がないわけです。現実を徹底的に凝視した上に成立する、論理を超えた肯定。たぶんこれが重松清の描こうとしていることだと考えるわけです。それが証拠に、「日曜日の夕刊」収録の「桜桃忌の恋人」から引用です。ざっくり紹介すると主人公のグータラ大学生「オレ」が、太宰治に心酔し自殺を図ろうとする女の子「永原さん」に、自殺直前まで一緒にいることを半ば強要される、という話ですね。そのラスト付近、自殺するために「永原さん」が部屋から出て行き、ひとり「永原さん」の家に主人公が残ってからのシーン。

 いいよな? どーせ、こいつ、ほっといても自殺しちゃうんだもんな?
 玄関から、永原さんが外に出ていく音が聞こえた。オレは床に寝ころがって、天井を見つめた。ひでー奴。自分でツッコミを入れて、ヘヘっと笑い、寝返りを打ったとき、『斜陽』のフレーズがふと頭をよぎった。

 
 けれども、私は生きていかねばならないのだ。
 
 目をつぶり、頭を腕で抱え込んだ。「けれども」なんだ、と思った。「だから」じゃなくて「けれども」ってのが、なんか、いいな。
 (中略)
 そして、『女生徒』のなかの、こんな一節が浮かぶ。

 
 明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。

 
 ほら、すげえよ、ここでも「けれども」じゃんかよ。な? な? そーなんだよな?
 嬉しくなった。うまく言えないけど、うまく言えたってしかたないんだけど、なんかさ、マジ、いい感じ。
 永原さんに訊いてみたい。太宰ってさ、意外と生きていたかったんじゃないの? 最後の最後で一発逆転しようと思って、生きることの嫌な部分ばかり並びあげて、「けれども」の手前でけつまづいて転んじゃっただけなんだって、そんな太宰治論って、ない? なくても「あり」だと思わない?

ね。どストーレートに「けれども」と「だから」について書いてある。このギリギリの、瀬戸際での肯定感というか、否定に否定を重ねたのちに残る、小さいけれど限りなくホンモノに近い希望は、重松作品のほぼ全編にわたって主題となっているものだと思うわけです。まあ、すげえー地味な作品ですけどねコレ。ほとんど評価されることもない。でも、重松清の真髄は案外この作品に表われてたりして、と考えるのでした。

もう少し書こうかな。これは恋空みたいな、臭いものにフタした上での肯定感とはまるで違う、というか正反対のものだと言っていいでしょうね。もうね、youtubeで映画版恋空を見たわけなんですけどホントにひどいですよ。あれ作ったやつはなんか脳ミソにおできでもあるの? まあクオリティの低さは前評判で知ってたわけで、さしてビックリしなかったわけですがね、ええ、まずなによりガッキーのずば抜けた演技力のなさに驚きましたよ。表情に変化なっ! 声ちいさっ! 無表情で声小さいとか実生活のオレかって話ですよ。もうなんか色々大爆笑ですよ。もう思わず貼り付けチャイますよ動画を。

4分25秒から怒涛の爆笑レイプシーンの始まりです。

まず車で連れ去られるガッキー!(ガッキー「や、ちょ、ちょっとちょっと(棒)」レイプ犯「へっへへー」)
車、なぜか一面咲き誇るお花畑の前で停止、扉を開けて逃げるガッキー、お花畑に向かって猛然とダッシュ! 車中で男三人からどうやって逃れたのか一切説明ナシ!
お花畑の中を追いかけっこするガッキーとレイプ犯たち! ついに捕まるガッキー、しかし一向に服が脱がされる気配がない!(レイプ犯「おとなしくしろ!」ガッキー「いやだ、ヒロ、いや(棒)」)

迫真性ゼロ。あのねえ、AV女優のほうがよっぽどいい演技してますよ。まじで。この圧倒的ド下手女優なんとかなりませんかね。なんか腹立ってきたんですけど。
まあいいや。「嫌なら見るな!」についての記事のときにも同じようなこと書きましたけど、この平和(笑)なレイプシーンにこそ恋空の本質が表れているわけです。つまりレイプという「不潔」で「陰惨」な行為を、「不潔」で「陰惨」なものとして描かない。お花畑という美しい(笑)要素を持ち出すことでそういったネガティブな側面を揉みつぶし、お茶を濁し、端から存在しなかったように隠ぺいする。物語を構成する要素としてレイプシーンがあることが問題なわけじゃないんですよ。PTA的な恋空批判によく、こんなレイプだの流産だのといった内容は青少年にふさわしくない、みたいな意見があるんですけど、恋空が腐敗している根本原因はそこじゃないのだ。レイプという「要素」だけがあって「描写」がない、さっきの重松作品との比較でいえば汚いモノを徹底して「見よう」という意識が欠けているくせに(「嫌なら見るな」的思考の賜物。「嫌」だから「見ない」んでしょう)、一丁前に倫理を語ろうとする態度にこそ問題があるんじゃないのか。

ここには人を斬っても血が飛び出さないことでヨシとする時代劇、結局はキモいからという理由だけでロリ漫画を規制しようとするアグネスチャン(チベットはスルー)とおんなじ精神性を感じるんですよねえ。醜いものを直視もしないで、そういうものが「在りえてしまう」という事実も受け入れられない奴に「思いやりの大切さ」的なヌルい倫理を説かれても笑止千万なんすよ。もう恋空、人類の負の遺産としてノーベル平和賞をあげてみたらどうっすか。