自己啓発本て(笑)

なんか今まで三回にわけて肯定至上主義?とでも呼べそうな傾向をうだうだ糾弾してきたわけですけど、そして今、あんな知性の最底辺にいるような人々に対して躍起になってどうすんだという突っ込みもにわかに浮上しているわけなんですけども、当たり前の話ですが、だからといって否定至上主義に走ればいいわけでもありません。悪い点ばかりに目がいってしまう。いつもなんだか不満である。消去法でしかモノを選択できない。ある意味ノー天気でオメデタイ肯定至上主義よりも圧倒的に分が悪い。肯定至上主義は社会の存続など長期的な視点から見て危険なわけですが、否定至上主義はその悪影響をもろに個々人が被ることとなるわけです。まあ上記の三つ、ぜんぶぼくのことなんですけどねえ。

というか、肯定/否定という対立に限ったことじゃなく○○至上主義という発想そのものがまあダメなんすよね。考え方が一辺倒になって融通が利かなくなる。杓子定規。頑固。ほんとはその場その場で柔軟に発想し行動せねばダメなのだ。人生はケースバイケースという言葉ほど真実なものはないわけです。
そんなことは重々承知なはずなのに、なぜか法則を求めてしまう。なにかもっと明確な真理があるんじゃないか、どんな状況でも寄りかかることのできる強固な言葉はないのかと探し求めてしまう。まあこれもぼくのことなんですけどねえ。なんでそうなるかって、やっぱ不安だからなわけですよ。状況ごとに正しい判断を下すだけの力が自分にあるのか、まるで自信がない。だからどんな状況でも頼れる(依存できる)言葉を探しちゃう。ほんとはそんなのないのにねえ。自己啓発本とか格言みたいなのが世の中にあふれてるのってその証拠だと思うわけです。ぼく自身はそういう類のもの、キライなんですけどね。

なんでキライかっていうとあまりにもあからさまに知恵の言葉(らしきもの)が書かれてるじゃないですか、自己啓発本て。そういうのにウヘエと辟易するわけです。赤の他人がこしらえた言葉なんぞ信用できない。簡単に受容できない。だから小説を読む。小説って大半のものは作者の思想・信条を伝達するために書かれているわけですよ。例外ももちろんあるし、例外のほうがむしろ文学的価値が高かったりするのが難しいところなのですが、まあ、ふつう、ひとが小説を書こうというときそこになんらかのメッセージを埋め込もうとする。小説の読解って基本的にそこに埋め込まれたものを掘り起こそうとする作業なわけです。と、ここまで考えるとあるひとつの疑問が必然的に湧いてくる。なんでそんなメンドイことすんの?直接手渡しでよくね?ていう疑問。

よくないんですよ。実感の度合いがまるで違う。たとえばウサギとカメね。ウサギは「才能」カメは「努力」のメタファとして物語がスタートする。前半、圧倒的にリードするウサギ。カメはぜんぜん追いつけない。ところが途中、ウサギが調子こいてゲームを中断、昼寝をはじめてしまう。目を覚ましたときは地道に歩き続けてきたカメに追い抜かれて圧倒的に差が開いており、ついには敗北してしまう。と、まあぼくはこんな物語よんでもケッと吐き捨てて受容しませんけども、まあ、受容したとする。このことと、自己啓発本やら格言やらで「努力はひとを裏切らない」というキレイにパッケージされた言葉を受け取ることとでは、その真理(らしきもの)が自分に及ぼす強度がまったく異なってくるわけですよ。努力の象徴・カメの勝利を自分なりに解釈し、掘り起こした「努力の大切さ」という言葉には、実感が備わっているわけです。要するに疑似体験。実体験によってある教訓を自力で得ることと、他人から教訓を手渡されることとはまったく違うというのは当然ですが、実体験のみで何か真理(らしきもの)を一通り揃えようにも時間的制約がありすぎる。そんなに毎日ドラマが待っているわけじゃない。だから、物語で疑似体験して、ある真理(らしきもの)を自分なりに拵えるという作業が必要になってくる。物語の価値が世間に認められてるのってこういうところが大きいんですよね。まあもう一度言いますけど小説って、そこまで単純なものじゃないわけなんですけどね。メタファーリーディングって個人的にダサいと思ってますけどね。ただパズルみたいにメッセージ組み立ててるだけじゃん、って。

で、だからぼくはどこかで聞いたことのあるような言葉をぺろっと口にしちゃうやつが大嫌いなわけです。自己啓発本読んでカンドーしてるやつって他人から与えられた言葉を無批判に受け取ってうちゃうちゃ喜んでるだけ。馬鹿ですね。流行語をためらいなく使うやつと自己啓発本を好んで読むやつって同じ層の人間なんじゃないの。と勝手に推測してみます。調査したことないけど。どちらも他人の言葉に対する警戒が欠如しているところが似てるよね。

まあでもこの際そんなことはどうでもよくて、問題は、自分が寄りかかることのできる言葉(=真理)を探し求めること自体は責められるべき事柄なのか、ということです。ま、答えは単純で、責められるべきではない、ということです。だって、無理じゃん。ほとんどの人はそんな真っ当な判断力ないじゃん。寄りかかれる言葉がないと不安定すぎて死にそうじゃん。常に正しい判断が下せる自信なんてぜんぜんないもん、とまあそんな感じ。しかしだからといってあまりにも言葉に寄りかかりすぎると、最初に話が戻りますが、○○至上主義ということになってくる。杓子定規になる。融通の利かない頑固おやじの出来上がり。加減がむずかしいね。どーしようね。ってことでまあふつうは、自分のなかに何らかの思想・信条・規範・信念、まあ呼び名はなんでもいいわけですけどそういったものを作って、常にその例外の存在を意識しておく、という作業が必要になってくるわけです。まあ口で言うのは簡単ですけどね。

法律学も意外とこういう学問だったりするわけですよ。たとえば民法なんてほんとに恣意的ですからね。民法第○条と△条を適用して誰それの権利を保護しようとする、しかし出来ない、適用条件と事件内容が一致しない。じゃあダメなんだ、誰それさんを法的に保護できないんだあ、と思ったら、ここで信義則の登場ですよ。この信義則の登場によって今まで論理的に突き詰めて出てきた結論がコロっと覆っちゃう。「でも、保護しなかったら誰それさんがかわいそうじゃん!」というわけです。かわいそうだから、○条と△条をなんかうまいこと組み合わせてみません? みたいなこと言い始める。法律の重ね着で哀れなアイツを救っちゃえ☆ みたいな、もう最終的に感情に訴えかけちゃう。法律学って論理でギチギチに固めた頭の固い学問と思われがちなわけですが、意外にこういう一面があるんですね。「法」がきちんと存在しながらもその「例外」を意識する、「法」を適用することを絶対としすぎない、というふうに社会が成り立っている、まさに典型例だとおもうわけです。まあ、ぼく、法律を大学で勉強した期間、まだ四か月にも満たないわけですけどね。しかもまじめに勉強したの、テスト一週間前くらいなもんですけどね。そしてその期間中も、法律トゥマンネーとぼやきまくってたわけですけどね。

しかしながら、それじゃなんで否定至上主義に走っちゃったのかオレは、ということをこれから書こうと思ったわけですが、というかむしろそれが本題だったわけですけど、もう疲れたんでまた今度。