カミュ「異邦人」

えー、時間あいたわりに前回と書きたいことはあんま変わらないわけですけど、最初に謝っとくと、ごめんなさい、これからあの有名なサルトルの「嘔吐」を読んだこともないくせに批判させてもらいます。

サルトルといえば思いつくのは実存主義なわけですけど、コレ、なんのことだか知ってますか? とまあぼくは大して知らなくて、だから高校の授業の記憶とウィキペディアをフル動員して今まさにここで知的に語ってやろうという魂胆なわけですが、たとえば、ここにひとつのハサミがあったとする。ハサミとは一体何か? なぜそんなものがこの世に存在するのか? と仮に問われれば、眉間にシワを寄せるまでもなく答えは簡単に出せます。紙を切るのに必要だったから、だ。つまり「ハサミ」という存在は「人間がモノを切るために生み出したもの」と定義できる。

じゃ、人間は。と問うたところで、サルトル、もう、びっくりしちゃったわけです。ウソ! ハサミと違って、人間が存在することに理由なんてないジャン! てまあ今や中学生レベルの気付きですけど、たぶん当時としては衝撃的な発見だったんでしょう。つまりそれまでは、神が人間の存在理由の説明を担っていた。神が世界を創造し、人間を何らかの意図を持って生み出した、みたいな。ところがニーチェによって神が殺される。「神は死んだ」とかいう中二病ゴコロをくすぐる言葉の登場です。なんで人間存在の意味を総括していた神が死んだのか、というのは資本主義の台頭とかまあイロイロあるんでしょう、適当いってますけど、とにかくこの「神の消滅」によって明らかになった人間存在の豪快な無意味っぷりこそが実存主義の根本理念で、その哲学を小説にしたのが「嘔吐」てなわけです。

「嘔吐」、どんな内容か。ざっくり説明すると主人公のロカンタンが、小石、サスペンダー、自分の手を見てなぜか知らんが吐き気を覚え始め、最後、マロニエの木の根っこを目にしたときに強烈に嘔吐し、そこで初めて自分の吐き気の原因は、モノの「実存」が「本質」に先立っているという事実に気付いたからだった、と悟るという話だそうです。つまりまとめると、

ロカンタン「あらヤダ、この木の根っこったら、無意味にただ存在してるっ! ウゥオエエエェェェエエェエェェ!

ってもう絶対おかしいでしょう。まずなんでロカンタン、オネエ口調?とかそんな次元をはるかに超えておかしい。そんな知的なゲロがあってたまりますかね。それこそゲロはただゲロとしてそこに存在するんであって、何も哲学的な理由があって人はゲロを吐くわけじゃないでしょう。表現方法と表現手段が矛盾してるじゃん。まあ実際に読んだわけじゃないんでアレですけど、一般論でいってこういう表現方法ってすごくくだらないとおもうんだよね。たとえばこのロカンタンが酒に弱いのに飲みまくっちゃっただとか、車酔いが激しいだとか、まあ何でもいいですけど吐き気に対するそういう類の合理的な説明が作中でなされていて、そこに実存主義を読み取ることできる、というんならいいですけど、ゲロ描写が単なる思想伝達の道具としてしか機能してないんなら、文学としてはタイクツ極まりないでしょう。嘔吐に限ったことじゃありませんけど。たとえば、たびたび悪いですけど恋空。もうあの作品てクソ表現の見本市みたいなんですごい使いやすいんですよね。その恋空で、こんなシーンがある。4分50秒から。


ガッキー、きみそんな低いとこから飛び降りおりて何がしたかったの?wというツッコミはとりあえずおいといて、その瞬間偶然(笑)ハトが二羽、飛んでいくわけじゃないですか。で、落ちたノートが開いてたまたま(笑)ガッキーとヒロと子供、三人の絵が出てくる。要するにハトは死んだ赤ちゃんとヒロを象徴してるんでしょう。というか、象徴としての役割以外なにも果たしていない。で、それを見たガッキーがあっけなく自殺を止める。死ぬ死ぬ詐欺かお前は。自殺をやめたところを見るにガッキー自身も飛ぶハトにそういった意味を読み取っているらしいわけです。この一連のシーンの視聴者をナメてるとしか言いようのない大胆不敵な白々しさには目を見張りますね。まあ、だから恋空と嘔吐を並べるのは大変心苦しいわけですけど、でも少なくとも「ゲロ」と「ハト」、メタファの使い方の安易さといった点では共通するわけです。
なんでそういう描かれ方がイヤなのかということをもう少し掘り下げて考えてみると、たぶん、ぼくが虚無的人間だからなのでしょう。世界は“しるし”に満ちている、といった世界観がどうにも解せない。あのタイミングでハトが都合よく飛び出してくることによって、作品の向こうにいる製作者(=作品内の神)の作為(意思)を感じ取り、無神論者のぼくがいらつくわけです。まあ大半の日本人は無神論者なわけですけど。つーか今思いついたんですけど、もしかして近代の日本文学に私小説が多いのって、無神論に関係してたりしてね。神の存在を信じないから、自分が神となって“しるし”に満ちた作品世界を作ろうという発想がない、みたいなね。しらんけど。

話を少し戻すと、そんな知的な理由でゲロ吐いてたまりますか、という極めてまともな感想を述べたのがアルベール・カミュだったんじゃないかと思うわけです。出世作の「異邦人」ですけど、ムルソーという人物が登場する。母が死んでも(その死が母自身にとって悲劇なのかわからないから)泣かない。暴力事件の協力を友人に持ちかけられても、(断る理由がないから)引き受ける。彼は自分の身に起こる現象に意味を見出さない。社会的な倫理観からみたらこれらの行動はあり得ないわけです。自分を生み育ててくれた母の死を悼むのは善いこと、暴力に加担するのは悪いこと、という善悪の規範をまったく考慮しない。そんな彼のドライな行動が、簡潔な文章で淡々と描かれているわけです。はじめてこれ読んだの中三のときでしたけどね、なんかもう、ムルソーかっけえええってなっちゃいましたよね。だってムルソー、素敵やん? 社会の価値観に流されない姿、憧れるやん? とまあこんなかんじでムルソーに憧れてしまったのが確実にぼくの人生に悪影響を及ぼしているなという予感があるわけですけどね。ただまあ、元祖「ありのままの自分」といっちゃえば、それまでなのかもしれません。が、そういう言葉を無自覚につぶやいちゃう馬鹿とムルソーが決定的に違うのは、「自分」へのこだわりの有無である。前者は自分という存在を特別視しているが、ムルソーは、自分すらもどうでもよく、突き放している感がある。自己にすら意味を見出さない。

この徹底的に無意味・無関心を貫く態度が、絶望感を帯びているかというとそうでもないのがすごいのだ。出ました。要するに重松清流「逆接の思考」ってやつです。てやつですってまあおれが勝手に名付けているだけですが、要するに「この世のあらゆるものは無意味である、でもだから何?」というのがムルソーの、そしておそらく作者カミュのスタンスなわけです。「意味→希望」⇔「無意味→絶望」という二項対立から完璧に脱却している。彼はあらゆることを無意味でどうでもいいと思っているが、海、太陽、夕日を見て美しいと感じ、感動を覚えるのである。ただしそれらの風景は、恋空的に、あるいは嘔吐的に“しるし”をおびたものではない。神(=作者)からのメッセージとして回収されることのない、意味をはぎ取られた、単なる美しさである。

で、まあこうした意味を拒む態度は裁判にまで及ぶわけですね。殺した理由は?と聞かれて、あの有名な「それは太陽のせいだ」というセリフを吐く。殺人行為に理由付けしない。たぶん彼の犯した殺人行為と彼自身とのあいだに、言語化無効の隔たりがあったのではないか、と推測する次第です。まあ、言語化できないからといってもちろん殺人行為が許されるわけじゃありませんけどね。殺人シーンから開始して、その行為の理由が一切説明されないままストーリーが進行していく天埜裕文「灰色猫のフィルム」、無職の理由を尋ねられて、延々と関係ないこと(中学生のころ先生に朝のあいさつが出来なくて気まずかった云々)を話し続ける田中慎弥「図書準備室」あたりがこのシーンに連なる作品ですかね。ちなみに、天埜・田中どちらとも作家になるまで無職だったことも作品内容と無関係じゃない気がします。だって、就職活動って逆に全てを意味付けようとする作業ですからね。わたしは中・高・大と剣道を続けた経験によって、あきらめないで頑張ることの大切さを学びました!僕は海外への留学経験を通して言葉の通じないひとたちと接したことにより、コミュニケーションの大切さを知りました!

こういう言葉を聞くときに感じる微妙な居心地の悪さは、たぶんムルソーがラスト、神父に対して放ったどなり声に通じるものなんじゃないかと。つまり無意味の上に立脚できないから、無理やり作り出してでも「意味」にすがりつく、そして他者にもそれを強要する。そういう態度をムルソーは敢然と拒否するわけです。で、彼は神父をどなりつけたあと、少し眠り、そして「世界の優しい無関心」に心を開く。ロカンタンが、そして「異邦人」における多くの人々が吐くほど恐れた「世界の無関心」は、ムルソーにとって「優し」いものだったのですね。

褒めすぎてもアレなんですこし批判すると、作者は「ムルソー的人物は社会から疎外される」ということの不条理を描こうとするあまりちょっと演出が過剰になっちゃった感じがありますかね。ムルソーが人殺しをした後、裁判を中心にストーリーはすすんでいくわけですが、この裁判があまりにも「母の死に涙しなかった」「悪い友人と付き合いがあった」ということに重きを置きすぎるんですよね。おい肝心の衝動殺人に関しては特になしかよってかんじですよね。ムルソー的信条を持っていると確かに社会(=他者)から白い目で見られますけども、でもそれはあくまで無言の不可視な圧力であって、死刑みたいな極端な形では現れないだろうと。殺人が理由もなく「太陽のせい」で行われることはありうるだろうとは思いますが、だからといってそれを正当化することは許されないだろうに、まるで「母の死に涙しなかった」せいでムルソーが死刑に処されたかのように描くことで(実際あのとき泣いていたら死刑は免れていただろうと思われますが)、どちらにせよ彼の犯した殺人は罪であったという事実から読者の目を逸らせようとしているような印象を受けるんですね。というか、カミュの意図はおそらくカッコ内に書いたような「泣かなかったせいで禁固刑→死刑に格上げされた」ということへの不条理にあったものと思われますけど、その説明があまり明白じゃないから、殺人すらも「正直ならOK」と正当化されていると誤読される可能性をはらんでいるわけです。だから、ムルソー的思想を擁護したいならカミュは本当は作中でムルソーに殺人をやらせるべきじゃなかった。どうしても死刑を持ち出したいんなら、ムルソーがその生き方のせいで周りから危険人物と勘違いされ、無実の罪に問われ、死刑判決を受けるといった形で出すべきだったとおもう。つか、なんだっけ、光市の母子殺人の福田孝行クンなんてまさに誤読して「(ムルソーって)もろ俺じゃん!」て尻尾ふってはしゃいでたらしいですけどね。いや、そうやって正当化ではしゃぐ時点でぜんぜんちゃいますけどね。キミは自分だけが後生大事なんじゃないのかい、みたいなね。だいたいテメエの殺人は「チ○ポがアツかった」せいだろうがああ! いや不謹慎でした。こいつもう刑務所出てるんでしたっけ。いや死刑判決でたんだっけか。どうでもいいか。よくないか。

本当は「ペスト」についてもついでに書こうと思ってたんだけど。めんどいし、だいぶ内容忘れてるんでもういいです。読みなおそっかな。読んだらまたそのうちに。