人それぞれという言葉

「人それぞれ」という言葉。これってホントに厄介です。この厄介さに無自覚なままこの言葉をげろんちょするやつはもっと厄介です。ヒステリックにせよ、ドヤ顔にせよ。

ひとそれぞれ好み違うだろ!!
俺は好きだけどな!!
彼らは話題だけじゃなく、実力もあるし、音楽にどん欲に取り組ん­でると思うよ。
将来が楽しみ。
あと嫌いなら聴かなくていいと思うよ。どうせ批判のコメントなん­てだいたいが暇つぶしだし。1 か月前 32


上地のことが嫌いではないが、この曲はボツ
何がいいたいのかわからないし、上地のアホさが強調される。2週間前


ふざけんな!!
ゆずがパクリなんてやるわけないやろ!!
だいたいこの曲に何の不満があるのか理解できない
こんなにいい曲なのに 1日前


えーついにやっちまいました。引用はじめるとキリないし粘着質になりすぎなんでやめようと思ったんですが、ね。すごいでしょ。すごいでしょ! これ同一人物のコメントです。錯乱してんのかコイツは。一番上のコメント、フランプール「花になれ」にあったやつで、スパム報告されると同時にプラス評価が32もついてるんですけどギャグですか? まあ、「人それぞれ」と「嫌なら見るな」をひとつのコメントに入れるサービス精神、まったく、欲張りすぎっ。もう、なんかいっか。突っ込まなくて。想像を絶する馬鹿が世の中にはいる、と視野を広げるのに使ってください。

さすがに「人それぞれ」の持つ臭みについて書くのにこの極端な馬鹿をサンプルに使うわけにもいかないんで、もうすこし丁寧に考察してこうかなと思うわけです。結論から言うと、ほとんどのことは実は「人それぞれ」なんじゃないかとずいぶん前から思っている自分がいます。いや、人それぞれなんぞ当然じゃん、それはあくまで前提で、それを了解した上でその差異を言葉によって埋めていく作業が議論てやつではないのんか、「人それぞれ」とか言うのは、その過程をすべて放棄するからダメなのだ、というのが多分スタンダードな「人それぞれ」批判の言説でしょう。要するに、両者の意見にある溝に、言葉によって形づくられた橋をかけよう、という作業。「人それぞれ」はその橋をぶっ壊そうという乱暴な言論だ、みたいな。

でも、人はどこまで議論可能か。たとえば、みかん好きとりんご好きの議論は成立しうるか。テーマは「どちらがよりおいしいか」。まあ、成立しませんわな。とーぜんですね。なんで。好みは人それぞれだからだ。みかんがりんごより味覚的に優位であるなどといくら熱弁したって、だから皆みかん好きになるべきだと主張したって、りんご派は誰ひとり納得しない。価値観の押しつけだからだ。

じゃ、選択的夫婦別姓に賛成派・反対派の議論は成立するか。たぶん成立すると見るんでしょう。ぼくもりんご・みかんより成立すると思う。まあなんで夫婦別姓なのかっていえば、単に大学のゼミで取り上げたからで、すいません、これに関して全く興味が湧かずぼくの意見はほぼナシなんですけども、ここでぼくのクラスメートのA君とBさんの意見が対立します。反対派のAはこう主張する。

A「選択的夫婦別姓推進派は、それが『選択制』であることを全面に押し出してくるが、別姓を選択する家族が存在するという事実によって『姓は家族を示すものである』というこれまでの慣習が崩れることとなる。反対派はそれが嫌なのだ。別姓を望む人たちの数は、これまでの慣習を壊しうるまでの数に達していない」
一方でBはこう言う。
B「慣習、慣習というが、現に同姓強制によって不都合を強いられている人がいるわけで、それら少数者を慣習=多数派の主張だけで圧迫するのは間違いである」

まーだいたいこんな感じだったかな。本人らが見たらゼンゼンチゲーヨ!!と張り倒されるかもわかりませんけども。
で、ここの論点は何か。もちろん、「マジョリティはマイノリティを圧迫してもいいか」。なわけではありません。たぶんね、100人に「マイノリティは保護されるべきか?」と質問したら95人はYES!と答えると思うんですよね。大半のひとが少数派は保護されるべしと考える。自分がマイノリティ側に回って辛かった記憶を掘り起こしつつ。自分がマジョリティー側に在ったときのことは思い出さない。つーか、気づいてない。や、ぼくも含めてね。マジョリティ側は指摘されないと自分がマジョリティだとも気づかないンすよ、ふつう。だから、さっきの質問の残り五人がNO.と答えたらびっくりする人、いるでしょうね。「げっコイツ全体主義者かよ。ファシストかよ。ヒトラーかよ。アウシュビッツかよ」白い目で見ちゃう。いやいや、キミ今まさにマイノリティ差別を全身で体現してるけどwwみたいなね。具体例挙げろとは言ってないけどwwみたいなね。全部勝手な想像ですけどね。

Aは別に、少数派は多数派に従え、と言っているわけではない。ただ少数派を認めればいいというものではない、と言っている。どんな少数派も認める相対主義は過度の多様化、カオスをもたらすから、というわけです。で、この段階ではまだ夫婦別姓推進派は有力な少数派を形成できてない、と。だからここの論点は、「少数派はどのレベルまで保護されるのか」です。ま、ケースバイケースですけど、じゃあ夫婦別姓の場合はどうか、ということ。どーなんでしょ。もちろん、さっきも書いた通り全くの少数者を保護するわけにはいきません。夫婦別姓を望む人が1000人に1人だった場合、その主張は受け入れられるか。まーたぶん無理でしょ。話題にものぼらない。じゃあ、999対1はダメとして、900対100はどうか。800対200は。700対300は。で、700対300を選んだとしてその根拠は一体どこにあんのよ、という話になっちゃうんじゃないの、といいたいわけです。なんとなく、じゃねえのと。違うの? 感覚的に、じゃないの。や、統計学とかやるとまたそれも違ったりしてね。しらんけど。結局ね、突き詰めちゃうと最終的に「どこに線引きするか」に行き詰まるわけですよ。

例えば今、ここでひげダンスを踊ってみる。全くの無意味である。でもよく考えたら、考えなくとも、人生そのものも無意味である。じゃあ、どっちにしろ無意味ならいっそ踊っちゃうか!とはならない。無意味なんなら生きるのやめてやる! ともべつにならない。なぜ? 無意味の強度が全く違うからだ。今パソコンの前でダンスしてもそこで得られるものは何もない。おいしいものが食べられるわけでもない。かわいい女の子が寄ってくるわけでもない。でも生きていれば、おいしいものをこれから食べられる、かもしれない。超絶美女のおっぱいぱいを揉める、かもしれない。おいしいもの食べても、おっぱい揉んでも、究極的には無意味にせよ。なんか自己啓発本を書いているような気分になってきたw 何が言いたいのかというと、要するに、無意味の強度の、どこに線引きするか、ということなんですよ。「生きる」と「ひげダンス踊る」じゃ天と地の差ですけど、じゃあ、キミは、天も地も含む究極的には無意味な諸々の行為のなかで、どこまでを行い、どこまでを行わないの、という。どこで線引きすんの、という。その線引きになんか根拠はあるの、という。感覚じゃないの、という。何か抽象的なことについて徹底的に議論した、あるいは考え抜いたことのあるひとならきっとわかってくれるとおもいますけど、結局、最終的にこの「どこに線引きするか」が問題になるわけですよ。で、その線引きは何で行われるかっていうと、

感覚でしょ? 感覚だと思うなあ。当然感覚を言語化するのはえらく困難ですよ。てか、不可能でしょう(笑) 感覚って、ようは好みのことですからね。好みはひとそれぞれ!なんだったら、客観的・論理的に突き詰めても最終的には感覚・好みの問題にぶち当たる議論に、一体どれほどの価値があるのか。さっきの別姓をめぐるABの議論と、みかん・りんごの議論に、大きな違いはあんのか、という。なかったりして、という悲しー結論。だから議論はする必要がない、とまで言い切るつもりは全くありませんけれど、でも一方で客観性・論理性を信奉して、議論するのを知的な行為だと信じ切って得意満面のひとびとを見ると、あらら、とは思うわけです。じゃあ議論とは何なのか、何故それをするのか、という話はまた今度ということにして結論をまとめると、ぼくは、もしかして最終的に「人それぞれ」だったりして、とは思うのだ。しかしそれは悲しい結論であって、少なくとも、ドヤ顔で言うものではない。それを言うことは寛容さの証明になんかならない。いくら言葉を重ねて議論を尽くしても最終的に感覚/好みという言語化無効の壁にぶち当たるなら、結局、人と人は言葉でわかり合えなかったりして、という説をまことしやかに浮上させるものなのだ。そしてこの「人それぞれ」は、もう、表現する言葉それ自体を不可能にさせうる。だって、自分の意見は、自分と性質も経験も違う他者にどれほどのインパクトを与えうるのか。自分と他者の間に言語化無効の隔たりがあったとしたら、言葉はその溝を越えられない。届かない。あーあ(笑) 結果として、感覚を通じてわかり合うもの同士だけが、わかる言葉で、わかり合っている、という閉鎖性は打ち破れないんじゃないか、という結論に達しうる。だから仮に「人それぞれ」が真理だとしてもそれは安易に吐かれる類の言葉じゃないのだ。おしゃれに口にするもんじゃないんだよ。
こういう繊細な言葉は、おまけに簡単に悪用される。たとえばこの間取り上げた「人殺しちゃなんでダメなの」の中学生みたいなやつに。つまり「自分は殺されるのがイヤでもアイツがそれをイヤがるとは限らない」といったような、他者を自己都合で「解釈」する悪しき相対主義を生むことになるわけです。あるいは、最初に取り上げたティンカスみたいな馬鹿に誤解・曲解されて利用される。みかん・りんごの例ならりんご派が「おれ、みかん嫌い」と言っただけで激昂する。「ひとそれぞれだろ!嫌いなら食べるな!じゃあみかんよりおいしいモノ作れんのかよ!みかん農家がかわいそうだろ!」。自分の意見は絶対に否定されたくない。自分と異なる意見を言う他者には耳を傾けたくない。でも体面は保ちたい。そういう馬鹿たちの都合のいい免罪符に利用されることなるのだ。彼らは絶望的に頭が悪いので、反対意見封じのための紋切り型の文句を吐き出すことに、ためらいがない。しかも多様性を認める寛容さを装っているから本当にタチが悪い。実際には、自分の意見は絶対で、他者の意見は聞き入れないという、寛容さの真逆の最低の連中なんですけどね。本人が一番多様性を認めていないのだ。上に引用したのがまさにそれ。ゆずとフランプールは好きだから、「人それぞれ」という言葉を盾に否定派にキレる。でも上地は嫌いだから平気でけなす。

まあ、youtubeのコメ欄の否定型が単に「嫌い」とだけ言っているかというとちがうんですけどね。けっこう上から目線だったり、挑発的なこと書いてる。たとえばこんな。

なんか最近の若いロックミュージシャンてナヨナヨしてて好きにな­れない
「可哀想な僕」を演出して若いリスナーに媚びを売って一儲けしよ­うって感じなのかな?
退屈な音楽が量産されては若い子に消費されて忘れられていくんだ
こいつらリスナーに音楽愛はない、ただ楽しければいい、共感した­いだけなんだから


これをきっかけに喧嘩がひとつ始まるわけなんですけど、このコメに対する反応がもう何度も言うように見事にあの三つの発言ばっかなんですよ。「ナヨナヨ」「媚びを売って」「音楽愛がない」といって指摘に反論しようという気がまったくない。傷ついたとか、うざいだとか、哀れとか、感情的に排除するだけ。そりゃ、この人も言い方を変える必要はあったでしょうけどね。でも、反応があまりにひどい。さっき否定したくせにアレですけど、もうちっと客観的・論理的にやれよ、と。まあ、作品への感想を言語化するのって、結構たいへんですけどね。それはわかる。でも、だったら、ノーテンキ派になれよと。好みはそれぞれ、に逃げて終わらせんなよと。だいたい、創作物への評価はあからさまに「好み」で決まるわけじゃないと思うんだけどね。決め手が最終的には好み・感覚だとしても、創作物への評価はりんご・みかんの好き嫌いとは明らかに違うものだ。

ちなみに、嫌いならその理由をしっかり書くべきだ、という意見もありましたけど、これも違うと思う。コメント欄は単にコメント欄であって、あくまで感想を垂れ流す場だ。支持派は「好き」とだけ書くのに、否定派だけ理由を付けねばならない法はない。もちろん、理由を書いてもいいし、書くからにはちゃんと説得力を持たせなきゃいけないけども。

で、これまで書いてきたぼく自身はこのフランプールについてどう感じているのかというと、まあ、とくに何とも思いません。思いませんが、まあ、正直、良い歌手もいるんでしょうけどJポップ自体にそもそもそんなに期待してなくて、フランプールもご多分にもれず、という感じだったから、否定派に肩入れしてる感もなくはないです。なんでJポップに期待しないのかって、まあ、歌詞がやばすぎですからね。なんかJポップ歌詞マニュアルみたいなもんでもあるのかってくらい全てが似てる。そしてなんか甘ったるくて恥ずかしい。そんなかんじ。

具体的に突っ込みたいのは、曲名でreboot〜あきらめない詩〜ってのがあったんですけど、これはちょっとねえ。あきらめない詩て。「あきらめない」も「詩」もマニュアルに載ってそうなワードではありますけど、組み合わせりゃいいてものじゃないでしょw だって、「あきらめない」の主体は何ですか?詩?
ポエム「おれ、あきらめない!!!」
……って、なんか揚げ足とってるみたいになりますけど、勢古浩爾流に言えばそんな足を揚げるなってわけですよ。つまり、日本語としてのそういう不自然さを感じられないのはやっぱセンスないからだと思う。誰がつけたのか知りませんけど。興味もべつに、ありませんけど。