綿谷りさ「勝手にふるえてろ」

めっちゃ久々の更新。つかブログの存在自体ほぼ忘れていた。あけましておめでとうございます。通称あけおめ。誰がこれ最初に省略したんでしょうね。おはござ、とは誰も言わない。

そして小説読んだのもかなりひさびさ、木下古栗「いい女vsいい女」(超傑作です。でもレビューは書けない)以来なのですが、いやー、綿谷りさすごく良かった。蹴りたい背中のときはそんなにピンとこなかったけどこのひとこんなに面白い作家だったのか。勝手にふるえてろ。タイトルもいい。

26歳、処女、モテない女が理想の男イチと自分を愛してくれる男ニの間で揺れるお話だ。まあこの構図自体は極めて凡庸、あいのりみたいな番組で見られそうなありきたりな設定だし、実際この小説に不満がないかといえばそんなことはない。元オタクのうじうじした性格なのに、突如謎の行動力を発揮したりするところには微妙に違和感を感じた。まあ、その極端なブレ方こそリアルなのだ、といえばそんな気もしてくるけれど、中学卒業以来10年以上あこがれ続け、他人の名を騙って同窓会を開催してまで会いたかったイチに、名前を覚えられていなかったというだけでそれほど落ち込むことなのか。主人公、たったこれだけのことで理想の男イチを諦めてしまうのである。その後イチは登場しない。これは小説として致命的な欠陥だと思う。主人公がイチと相思相愛の関係にある、と妄想し続けたのならこんなこともあり得るだろうけども、中学時代の自分たちの関係性を主人公はわりあい冷静に分析できていたのにこれはおかしいだろう。あとイチが主人公に対し絶滅動物について長々語るとこも、え、そういうキャラだったの、と驚いた。幻滅するとしたらむしろこのシーンだったんじゃないか。細かいところでリアリティーがない。

が、まあそういったプロット上の諸々の欠点なんかどうでもよくなるくらい主人公のキャラがひねくれていて面白い。アマゾンのレビューなんか見てみてもやけに評価の低い作品だけれど、プロットばっかり気にかけてるからそうなるのだ。トイレの音消しがもはやマナー化していてウザいから、周りの音消しの音にまぎれて「思いきり無修正で致す」のを「昼休みのささやかな楽しみ」にしている、というくだりがしょっぱなからかまされていて、もうそれだけでこの作家を好きになってしまった。「ほれた者負け」という言葉に対するツッコミも冴えている。あげてくとキリがないけど、こういうとこなんかも毒があって非常にいい。

他人の結婚とかあめでたについて考えはじめると私は途端にケチな気分になる。男の人を紹介してくれるどころか合コンにすら呼んでくれなかった先輩が、結婚妊娠で散々祝われてご祝儀だけきっちり徴収して、産休に入ると仕事のことなんか思い出したくないのか彼女の仕事を肩代わりしてやってる私たちには何の連絡もいれず、忘れたころにゲリラ的に一斉送信の赤ちゃんの写真付きメールを送信してくる、その一連の行動の繰り返しですっかり素直に祝えなくなってしまった。本人にとっては感動的なわが子の誕生かもしれないけれど、私にとってはその辺でごろごろ生まれてる赤ん坊のうちの一人でしかない。

「ゲリラ的」「ごろごろ」あたりの言葉選びのセンスとか素晴らしいです。性格悪いなー(笑) 良識ある社会人の方々なら顔をしかめるだろう、器の小さいゆがんだ「正論」だ。綿谷りさはもうこの方向で今後も頑張ってほしいです。


ひさびさに小説を読んで思ったけれど、純文学を読むっていうのはやっぱり「言語による表現そのもの」を楽しむ部分が大きいような気がする。当然だがボキャブラリーも非常に豊富だし、見慣れたものを意外な角度から表現されるからなんかハッと目が覚めるかんじがするのだね。その対象は非常にせこい、ちっこいものだったりするから、「社会・人生を語る」のがすなわち「高尚・知的」だと信じて疑わないバカには生涯わからない感覚だろうが、自分のなかで固定されていたものがこわされていく「知的な」快感というのは、(多少大げさにせよ)ほんとはこういうことをいうんじゃないか。人生論なんか読んでみろよ。どれもこれも聞いたことある言葉ばっかりじゃないか。何が面白いんだあんなの。社会的に成功してらっしゃる人のインタビュー、なんかほんっとにツマランよね。「視野が広がった」「勉強になった」なんて一体どの口が言うのか。何故誰もツマランと言わない。もちろん、その人がそういう信念を持って行動してその地位に至ったことは文句なしに尊敬に値すると思う、が、その言葉が凡庸ゆえに退屈で、退屈であるがゆえに何の衝撃もこちらの胸に植えつけないことに変わりはないだろう。一応社会的な成功を収めたいという欲望もぼくのなかにはあるが、正直それを読んだところで「まあそうでしょうね」「ああ、適合された考えってこんなんなんだな」「こういう考え方すれば支持されるんだな」という醒めた感想しか浮かばない。何度でも言うけれど価値ある言葉とは「正しい言葉」じゃなく「新しい言葉」である。凡庸な人生論と斬新な下ネタ、ぼくだったら迷うことなく後者をとります。

で、こういうぼくの文学の楽しみかた、不安定さ、破壊(および再構築?)を期待する楽しみ方って実はお笑いにも通じるものじゃないかと思ったのでした。前にバカリズムについてちょろっとこのブログで書いたけれど、ブラックマヨネーズの漫才やバナナマンのコントなんてのは日常の非常に細かいところに目を付けて、表現して、笑いに変えている。あるいは大喜利ナンバー1を決める一本グランプリなんか観ていてもそうだ。まあ今は全然考えがまとまっていないので詳しくは書けないけども。そのうちいろいろ書いてこうかとも思う。まあ笑いを語るのは若干恥ずかしい。「語られる対象」と「語るために吐き出された言語」がすぐに乖離するからだ。木下古栗について書いたとき起きた現象だね。まあでも恥ずかしくても書いちゃう。今注目してるのは、ブラマヨ吉田、有吉、バナナマン設楽、博多大吉、天竺鼠川原、野生爆弾川島、バカリズム、あたりか。

クリスマスってわけで非モテについて非モテが語る

昨日ちょっと用があって夕方新宿いったんですけど眩しかったねー。街が。なんかもうキラキラしてんの建物も人々も。
まあ(いわゆる)非モテは全員思ってるだろうけどいい加減クリスマス廃止しろって思うね。クリスマス=デートみたくなってんの日本だけ、ってのは有名な話で、まあだからって日本はおかしいということにはならないと思うけども、しかしねえ、この日が訪れることによって自分に彼氏/彼女がいる/いないのが必然的に周囲の人間にばれるってのはまあホントに変な話ですよ。プライバシーも何もあったもんじゃないね。家族or友人には絶対ばれるシステム。やけにプレッシャーかかるんだけどなんぞこれ。
もうクリスマス前になると大学では自意識の無言の攻防戦が繰り広げられてますw 11月後半くらいまでは「クリスマスひとりだーw」的自虐がちらほら飛び交うんですけども、本格的にクリスマスが近づくとピタリとそういう言葉が聞かれなくなる。
何故か?
予定が埋まってくってのももちろんあるだろうけど、あいつホントは黙ってるけど恋人いるんじゃないか的な疑心暗鬼が芽生えるからだ。彼女いないけど家にこもってるのは悲しすぎるからせめて友達と過ごそうかなと思うものの、「アイツほんとは…」と疑心が芽生えて踏み出せない上に、自分から友達をクリスマスに誘うのはプライドが許さない。クリスマスなんぞ彼女がいなくたって平気で過ごせるぜー的スタンスを出来れば保ちたい。「クリスマス遊ばね?」などと同性の友人に言ったらもうクリスマス補填要員として誘ってるのがバレバレである。その上「ごめんオレ彼女いるからw」などと断られたらこれはもう一生もののトラウマである。でも誘わなければこのまま自宅だ。どうする。どうする。プライドとプライドが格闘する。世間様の目が気になる。腹の探り合い。うぎゃー。
てまあ全部妄想ですけど。意外とあたってんじゃないか。

もうアホくさくてたまりません。アホの一員であることを自覚の上でいいますけどやっぱり馬鹿らしいでしょこんなもん。まあ焦りがあるからクリスマス前は女の子もガードがゆるくなるしそういう意味では恩恵があるのか。ねえよ。全然ねえよ。しかもねえ、最初のとこに話戻しますけど、電車にもカップルがいっぱい載ってるわけですけど、ひとり、男で、めっちゃ浅く席にこしかけて彼女の髪なでなでしてる奴がいてさすがのおれも眼つぶししてやりたくなりました。まず何より足じゃまだよお前。彼女といるオレ勝ち組だぜっていう自意識がもう毛穴中から吹きこぼれてるんだけどなんなの。まあいいや。

非モテは誰と戦うのか? これが今回のテーマである。まず非モテとは何か、と定義する必要があるわけだけれど、これには二つのタイプがあるとおもう。
①好きな異性がいない。から必然的に恋人もいない。実はそんなに恋愛に興味ないがなんとなく年齢を考えて焦っている。
②好きな異性もいるし恋愛がしたいのにモテない。異性に相手にされない。
まあ厳密に分かれるわけでもないだろう。たとえばルックスがいいから異性に積極的にアプローチされる、その結果その人に惚れるなんてことがあるはずなわけで、異性に相手にされないからその機会がなく、いまいち恋愛への意欲がわかずにいる、とか。

で、まあなんとなくだが非モテは自己を①だと認識したがり、恋愛強者は非モテを②だと認識したがるクセがあるわけだね。ここで非モテと恋愛強者の確執が生まれる。非モテは自己を①だと思ってるから、周りの無言のプレッシャーこそ苦悩の原因だと考える。そこで次のような発言が(ネット上で、?)なされる。「別に彼女ほしくない」「恋愛至上主義うざい」「一人が好き」 で、恋愛強者は非モテを②としか認識していないので次のように言う。「無理すんなー」「恋愛は人を成長させるゾ」「非モテが正当化に必死だなw」

まあ、①か②か正直自分でもあんまわかってないが少なくともぼくは非モテなわけで、だから非モテ側に同調したくはなるのだが、そこをぐっと抑えて恋愛強者側の視点に少し立ってみると、多分「恋愛至上主義」に対して吠えている非モテたちを、彼らは実際少し不思議に思っているんじゃないか。何をそんな吠えてるのかと。わからないから、とりあえず安易に「嫉妬」「正当化」「強がり」といった言葉で理由付けして処理する。別に恋愛至上主義なんかねえよ。ただ純粋に自分らの恋愛を楽しんでるだけだわ。みたいな。いや、異性に人気ない奴を、モテる自分と比較してさげすむことは実際心の中でしているのかもしれないけども、それにしても非モテ側が必要以上に力みすぎている感じはなくはない。じゃあ彼らは一体誰と戦っているのか?

本当は、「このくらいの年齢になったら甘い恋愛をしているだろうと勝手に予測していた過去の自分」なのではないか。耳をすませば、が鬱映画としてネット上でネタにされてるのがいちばんいい例だろう。恋愛もの青春ものの映画なんて腐るほどあるのに何故「耳をすませば」なのか。幼いころ、何の気なしに見ていて、大きくなったらこんな感じなのかなとなんとなく想像していた、そんな内容の映画だから、じゃないか(実際あれほど甘酸っぱい青春おくれる人間なんてそういないだろうけども)。この、なんとなく、という無意識に食い込んでくる部分が曲者だ。彼は、苦悩から逃れるために「これだけが青春の形ではないはずだ」という認識を急いでつくりあげなければならない。
言葉の上で、意識の上でそういった発言をするのは簡単だろう。だが心の奥底では自分の発言に納得しきれていない。幼いころにしみ込んだ観念はなかなか抜けないだろう。恋愛強者はそこに付け入る隙を見つけ、「自己正当化に必死だなww強がるなよ」と言う。まあ確かに強がりだろう。しかしまあこれは非モテ問題以外にも言えることだけれど、そこに何らかの残念な自意識が伴ったからといって、発言の内容そのものまで誤りであると切り捨てることはできるのか? 非モテたちの怒りは果たして「必死さ」だけで作られたものなのか、という。弱者のほうが物事全体を俯瞰できる、というのは確実にあるわけでしてね。

まあでもそんなに思い悩むことじゃないだろう。本当は。というかぼくの場合は、なんか周りに「恋愛と全然縁がありません」的なやつが多いし、ふつうにイケメンでおしゃれなやつが彼女いない歴=年齢で卑屈になったりしてるんで(笑)おれがいないのもフツーかなあみたいになってます。自虐ネタとしては結構おもしろい。一番必死だったのは中3くらいのときかな。自分の抱いてた中高生のイメージに現実を近付けようと頑張ったんだろう。電車のなかとか、ファミレスとかで、茶髪で巻き髪の女子大生数名にたまに遭遇するけど、ああいうのがそばにいたら鬱陶しいだろうね。耳を傾ければ聞こえてくる言葉は「イケメン」「かっこいい」「カレシ」みたいなのばっかりだ。マ○コで会話してんのかお前らは。

「勉強できる=仕事できるとは限らない」ってくだりもうそろそろよくないっすか

高学歴は勉強ばかりしていて柔軟性・社会性が足りない。仕事で意外と使えないやつが多い。

この言説の真偽のほどはわからないけど、まあなんとなく高学歴だからって必ずしも仕事で有能とは限らないってのは想像にかたくはないけども。ただねえ。この事実を聞いてエエッマジで!!!って驚く奴が今どれだけいるのかって話ですよ。いつまで言ってるんすか、それ。もう聞き飽きたんだよね。みんな知ってるよ。誰も反論しないから落ち着いてって言いたい。

基本的に年配の人からこの発言が飛び出すケースが多い気がする。同じ失敗でも、勉強の出来がいいとただそれだけで、ルサンチマンに満ちた口調で「勉強ができるからって.....」とこう来る。やーぼくも何度か言われましたね。小学校のときにね、なかばトラウマですけど、なんかの作業の時間に友達とふざけてたら担任だったおばさん先生に廊下に呼び出されて説教されて、まあ、そこまではよかったんすよ。その後何が起きたか。一緒にふざけてた友達はすぐに説教から解放されたのに、ぼくだけ廊下に残され重ね重ね「勉強できるからって調子のんな」的な説教を延々されました。帰りの会的なあれでも同じ話をされ、「ねえ、君のことだよわかるう?」と粘っこい口調で言われました。一体なんだったんだアレは。おれがなんかしたのか。
それとうちの父(早稲田卒)もたまーに東大卒の部下をバカにしますね。頭が固いだのプライドが高いだの、云々。ぼくに対してもちょくちょく、「本ばっかり読んで人生をわかった気になるな」的な説教をしてきます。ははは。まあ教養主義として文学を読む時代で育ったんだろう、と「上から目線」で言っておく。今の時代も若干そのきらいはあるけどね。

あくまで想像にすぎないわけですけど、きっと彼らが育った時代は露骨なまでに「勉強ができるか・否か」が重視される時代だったんだろうなあ。成績至上主義。勉強ができない、ということでいろいろと不便を被る。東大卒ということで即採用。みたいな。知らんけど。今よりずっと学歴偏重社会だったことは間違いないだろう。そういう時代においては、「勉強できる=仕事できるわけじゃない」という発言はアンチテーゼとして有効だっただろう。まあ学歴至上主義真っ盛りの時代に勇気出してそんなこと言っても「低学歴の嫉妬乙ww甘えるな」と一蹴されて終わりだったんでしょうけど、でも、いやだからこそそういう言葉は吐き出される価値を持つんじゃないのか。学歴信仰が崩れつつある今うれしそうにそんなこと言われてもねー。
前もどっかに書きましたけど、今は信仰が学歴→コミュ力へとゆっくりシフトしている途中なのだろう。コミュ力がある=仕事できるがなんか定説になりつつある(そのうち「コミュ力がある奴が優秀とは限らない!」て言われる時代が来るんですかね)。となると一番の犠牲者は、コミュ力のない高学歴、というところか。いままで勉強することが人生においてもっとも重要だと信じて東大に入って、あげく、「コミュ力不足」の一言で切り捨てられる。どころか「勉強ができる」ということでかえって一層軽蔑の対象になるというね。こわ。
だいたい、「仕事できない」って括り方が雑すぎないか? 仕事ったっていろいろあるんだから、求められる能力もまた多様なんじゃないの。まあ新卒しか採用しない(つまり一度就職したら再出発がきかない)のがこの国だから、「この仕事が自分に向いていないだけかも」って発想は無意味なのかもね。「甘え」「ゆとり」なんていわれちゃってね。
はは。ゆとりだってさ。「お勉強ができるからって優秀とは限らない」とかいっといて、今の若者がクソなのは「ゆとり教育」でお勉強時間が少ないからなんだって。そうですか。どっちかにしろよ。(その仕事において)無能な高学歴の若者を見つけると一方で「勉強ばっかしてるからだ」とバカにし、他方で「お勉強が足りないからだ」と糾弾する。もうなんか錯乱してるようにしかみえません。一体「お勉強」と「人生」をどう関係付ければいいのか。そういう説明がかつてなされてるのを耳にしたことがないんだけど。自分で考えろってことか。出たね。お得意の。自分で考えろ。出ちゃったね。

あーあ。おれはどうすんだこれから。学歴はまあまあ、コミュ力なし、協調性なし、第一印象最悪(けだるそう、暗そう、こわい、らしい)。社会に出たくない、というか社会がおれに出てきてほしくない。そういやこないだ、キャンパス内歩いてたら「おれは社会の歯車になりたくない」って話してる男がいてニヤニヤがとまりませんでした。社会の歯車なんて言葉をリアルで使うやついるんだ。将来どうするのか、きっと彼なりにすごく悩んで、悩んで、悩んだ末に出てきたのがこの紋切り型。他人の言葉をそのままトレースするだけ。すごく「歯車」になる才能に満ち溢れているなと思いました。

メタ体質VSメタ体質のもうドロドロ泥仕合

物事を一歩ひいた場所から眺め、批評することを「メタ」という。ドラマでいうと三十三分探偵とかがそれだね。メタフィクション。ドラマの尺が33分であることを主人公たちが自覚している、という設定だ。あるいは、シラけ笑いというのがあるけれど、あれはメタコミュニケーションというやつだろう。つまらない発言で場が静まりかえる、その状況を一瞬後に俯瞰して笑う、という現象がおきている。
ぼくは、この「メタ視点でモノを見る」ということが習慣として体に染みついた、いうなれば「メタ体質」な人間である。「醒めてる」ってやつか。そしてぼくは基本的にはこの「メタ視点」を良いものだと思っている。このブログのなかでも何度か「自覚的になれ」的なことを書いているけれど、それは要するにメタ的な視点を持てよとまあそういうことです。
で、この「メタ」、「客観」というものとどうちがうのか。ほぼ似たような意味だろう。というか、たぶん元々はほぼ同じだった。主(=当事者)としてではなく、客(=第三者)として観る。が、ぼくは「客観」という言葉があんまり好きじゃない。「客観的に見ると〜」という言葉を聞くとウヘエとげんなりする。
なぜ、げんなりするのか。たぶん、客観という言葉が、主観とは正反対のものを指す言葉として使われてる気がするからだろう。つまり「客観的に見ると〜」という発言をする人を見ていると、どうも、「自分は主観=偏見といったものを排除できてますよ」みたいな顔をしているのだ。すると、「客観的にみる」は「真実・本質を見抜く」という言葉と似た響きを持つ始める。しかし少し考えりゃわかることですが、真実・本質なんてほんとにあるのかわからないし(「ない」と言い切るのもまたアレですけど)、また主観を取り除くなんてことは不可能で、仮に客=第三者の気分になって観たところで、あくまで客も「人」であるからには偏見からは逃れられぬのだ。でもだからといって、「すべては主観なのだ」などと開き直るのもバカですから、どうするかというと、ここで「メタ」という言葉が登場する。
メタは、人を「行為する主=自分」と「観る主=自分」に分裂させる。「観る自分」を「客=第三者」に置き換えるのではなく、あくまで「主」として、その主観性を意識しながら「行為する自分」の背中を見るために後ずさりする。これが「自覚」という言葉となってあらわれたりもする、というわけだ。開き直り、とも言うかもしれない。つまり「メタ」は、絶えず「観る自分」、さらに「観る自分を観る自分」といったように無限に後退していく「観る自分たち」に、たえず自分の行動を監視され、統御されるような在り方のことを言う。とぼくは思っている。

ところが、他人までをもメタ視点で眺めると困ったことになるのですよ。メタ体質なものでぼくもよくやってしまうのですけど、そのひとの「行為」を純粋に評価するのではなく、その裏にある「意図・自意識」を読みとろうとする。たとえば「偽善」てすぐに言っちゃうあの感じですね。もっと広くとれば、「○○ぶってる」「○○なオレかっこいいと思ってんだろ?」「嫉妬すんなよ」とか言っちゃうあの感じである。

もうね、いい加減「偽善」ていう言葉使うのやめたらどうっすか。偽りの善、てことはホンモノの善があるんですか、と言いたいところをぐっとこらえまして、もっと嫌なのは、この言葉の使い方が2パターンに分かれているところなんですよ。その二つとは、以下の通りです。
①行為する本人が「善いことだ」と思っているだけで、実際には「無駄」あるいは「迷惑」ですらある場合。「おれって善い奴☆」という自意識に内容が伴っていないことを指す。
②行為の内容は確かに「善いこと」だが、その横に「こんなことしてるアタシって素敵☆」という臭いのキツい自意識が付随している。「自意識を満足させるため」という動機から発生した「善い行い」を指す。

チリで地震が起こったときに千羽鶴を送った人たちがいたそうですが、これは明らかに①ですよね。だったら食糧おくれよってぼこぼこに叩かれてましたけどもっともなことだと思う。②はちょっと例が浮かばないんで申し訳ないんですけども、たとえば「やらぬ善よりやる偽善」という言葉における「偽善」は②を指しているのだろう。つまり、動機・意図がどうであれ、その行為自体が人の役に立っているならええやんけ、とこういうことだ。

①②は行為自体が善か否か、という点でかなり大きな違いがあるのだが、すべて「偽善」のひとことでくくられている。要するに行為の内容は吟味されずに、その自意識だけが問題とされているわけだ。なんでこんなことが起きているのかといえば、たぶん、「善」というものが「善き意図+善き行為」のセットとして捉えられているからなのだろう。どちらか一方が欠けた時点で、それはもう「善」ではない、「偽りの善」である、というわけだ。いや、というより「善き意図+迷惑行為」が偽善と捉えられるのを見たことがないから、どちらかといえば「善き意図」の方によりウェイトが置かれている感すらある。だから、自己陶酔の臭いをかぎ取られれば、ただちにそれは「偽善」に転落する。

こうなっちゃったらもうだめです。偽善という言葉を殺すしかない。偽善というものが取り上げられるとき、だいたい「イイ人ぶっちゃってキモチワルw」と「やらぬ善よりやる偽善!」の戦いとなるけど、そもそも捉え方の次元が違うんだよね。あはは。ばかだねえー

いま、たまたま「偽善」という言葉をやり玉にあげましたけど、「○○ぶってる」とかいうような、相手の心理を見透かすような言葉全般が結構あやういものだと思う。
人気の漫画・音楽を否定すれば「人気のモノを否定する自分かっこいいと思ってんだろ」「才能に嫉妬すんなよ」とこう来る。それに対する反応として、「悪口書いてる奴の本質見抜いてるオレかっこいいと思ってんだろw」というのがある。もうここまで来るとキリがありません。相手の背後をとる終わりなき戦いが開始する。そりゃ発言する限りなんらかの自意識は伴うだろうよ。こんな記事書いちゃってお前、「偽善」という言葉の本質見抜いてるオレかっこいいと思ってんだろwていわれればまあそうですしね。と、このように書くぼくは、「書く自分の自意識まで書いちゃってオレって正直☆」って思ってますしね。エンドレスなんでやめますけどね。

後退はどこかでやめなければなりません。メタ視点を自分に適用する場合でも、「観る自分」ばかりが権力を持ってしまうと行動できなくなる。まさに今のぼくの状態なんすけどね。かといって前進ばっかしてんのもキモチワルイ。では、どうするべきなのか。知りません(笑) 三歩すすんで二歩下がる、という言葉があって、これが正解なのかもしれませんけれど、「よし、三歩進んで二歩下がるように生活すればいいんだな」って考えたところで、で、それってどうやるのって話になりますからね。

ちなみに、こうやって何かを論じること自体を「上から目線」「偉そう」と拒絶するバカがいますが、これは、ひとをメタから引きずり下ろそうとする態度ですね。俯瞰してないで、同一地平線上にいろ! 一歩下がってねえで、前のめりに進め!とこう言っている。「偉そう=自分は偉いと思ってんだろ」と言ってる時点でそれもメタ視点で「上から」「偉そう」にしてるんですけどねえ。「語る自分」という自意識をどうにか制御しないと、確かに「偉そう」な独特の臭気は発生するんで、この言葉自体を否定する気もあんまないんですけど、でも、そういう自意識の存在まで意識して論じてるんならそれは「偉そう」じゃなくて「偉い」んだよ。少なくともお前よりはな。ははは あーぐだぐだだ

教育ってどうあるべきなんでしょうね、ていうお話

べつに学校制度について云々したいわけじゃない。もっとうすぼんやりした直感的な話。
教育ってだいたいふたつパターンがありますよね。既存の制度・規範・価値観・道徳・その他もろもろをごりごり子供に押しつけるタイプのものと、自由にのびのび、感受性豊かに、て奴。で、やっぱり最近は相対主義の傾向がつよいから、自由にのびのび型が推奨されているようでして。いわゆるゆとりって奴だね。ゆとり世代ど真ん中のぼくですけども。

で、まあ僕はこれから両者とも否定していきたいのだけども、まずは、前者、ゴリゴリ型からいくと、やっぱりこれは押しつけがましくってよくない。いろいろな考え方・感じ方を、無理やり一律に型に押し込めるから、個性がなくなる。すると、その反動で極端なまでに反抗するものが出てくる。窓ガラスたたき割っちゃう。盗んだバイクで走りだしちゃう。大人は汚い、信用できない、とか言っちゃう。まあさんざん言われてることなんで別に改めてかく必要もないけどもね。

で、後者、のびのび型。これもまたもうどーしょうもないね。個性、個性、と煽った挙句出来あがったのは、「ありのままの自分☆」といいながらこの上なく凡庸な、自己愛と表現欲が強いだけの馬鹿だった。結局ひとの感受性・思考回路なんてそこまでバラバラじゃない、というよりひとつの共同体に在る限りそこの価値観に無意識に染まるもので、そこでいくら表面的に個性を称揚したところで意味なんぞないのだ。好きな女性タレントは?と聞かれて、上戸彩やら、佐々木希やら、そのへんの有名な美女に結局は票は集まるわけで、個性や自由を言ってみたところで森三中山田花子やらを美女と感じる人が増えるわけじゃない、ていうお話。意見が食い違うとすぐ「そんなの人それぞれじゃん!」「価値観を押し付けるなよ!」と怒り狂って相対主義に避難する人間に中学生・高校生が圧倒的に多いのも、単に脳味噌の未熟さがなせる技ではなくて、この「みんな違って、みんないい(そのわりに横並び)」教育に影響された、結構根深いものなんじゃないかとぼくは思うのだ。
でも、のびのび型教育の一番の問題点は、おそらく、社会にうまく適応できないで苦しむ人間を大量に生み出すことなんじゃないかと思う。要するに、社会で生きていくには「損」な性格を、「損」だと知らされないまま、年齢を重ねてしまう。さっきも書いたが、同じ共同体に在る限り価値観はある程度統一されるわけで、狭い枠のなかで「個性、自分らしさ、オリジナリティ」と言ってキャピキャピはしゃぐマジョリティと、そこになじめないマイノリティとの間にある溝は深まる。マイノリティはしょせん「少数派」ってだけであり、どこかしらが突出するわけでもない。社会というのは、当たり前だけどある一定の価値観を共有しているから成立するわけで、そこから逸脱した人間に残された道は、芸術家、もっと広く表現者として、表現の自由で食べていくことしかない。しかし、表現者には突出した個性(=才能)が必要である。運に左右される。数に制限がある。才能がないのに、「損」な性格を野放しにしていたらどうなるか。性格を変える(矯正する、治す、とは言いたくないが)のは年齢を重ねるほど困難になる。中途半端な個性、中途半端な社会性。芸術家にもなれないしサラリーマンにもなれない。おまけに不景気。就職難。結果どうなるか。ひきこもるのである。ニートになるのである。
こういうことを書くと、社会・教育のせいにするな、甘えるな、という人がたぶんどこかにいると思う。おそろしいね。その脳みその腐り具合が。相対主義は基本的にすべての結果は「自己責任」に帰着させられるからね。
2ちゃんねるにあった書き込みなのだけど、だいたいこんな内容のものがあった。小さい子供のころは、授業中におしゃべりしたり、友達をからかったり、掃除をさぼったりしなければ、叱られることがなかった。与えられた課題以外何もしなくとも平穏無事に暮らしていけた。ところが、年齢を重ねるにつれて、「何もしない」こと、まさにそれによって周囲から馬鹿にされたり、軽蔑されたりするようになる、と。
のびのび個性尊重、の話とはちょっとずれるような気もするけれど、「社会が求めること」と「学校が求めること」の齟齬が問題となっている点では、共通する。要するに、個性尊重だなんてぬかしても、大人社会がそれを受け入れる準備が出来ていないんじゃ意味ないじゃん、て話である。

教育は理想の場としてじゃなくて、あくまで社会との連動の中で形成されるもんじゃないの。
てことで提案。ぼくは、もっとメタ的なレベルでゴリゴリ教育をすべきだと思う。ゴリゴリがやりすぎなら、まあ、ゴリ、くらいで。要するに、学校の先生が、教育の意味についてもっと自覚的になるべし、というわけ。人間形成の場、なんてカッコイイこと考えないで、自我が発達する前の子供たちを社会適合に適した人材に変える、というドライで現実的な役目で捉える。ある倫理を子供に教えるにしても、絶対的真理としてその倫理をゴリゴリするんじゃなくて、社会では残念ながらこの価値観をスタンダードなんだよ、的なかんじで、一歩引いた目線から教育する。どうせ思春期になれば、その倫理が絶対なわけじゃない、てことに気付くんだからねえ。「善悪は見方によって変わる」なんて、いまや超メジャーな少年まんがワンピースに登場するくらいですからね。あらかじめ、テツガク的には「絶対」なわけじゃないけど、社会で生きるには「絶対」ですよ、と教えといちゃえば、相対主義に目覚めた反動で、盗んだバイクで走りだしちゃうこともないんじゃなかとおもうんですけども。それで個性は押しつぶされるか、といえばそんなことはないだろう。個性って、押し付けられた型なんて跳ね返すくらいのパワーがなければ成立しませんからね。ちょっと押しつけられただけで「価値観の押しつけだ!」なんて悲鳴あげちゃうようなヤワな「個性」だったらさっさと切り捨てて社会適合したほうがいいとおもう。

だからその意味で、まあ現実的にはキビシイだろうけど、社会人経験者を教師として採用してったほうがいいんじゃないか。地方の小学校のセンセなんて、もうひどいもんねクオリティが。もちろん例外だってあるでしょうけど。ぼくの通った千葉県の小学校はひどかった。なんか汚いひげおやじみたいな奴いたし。女性に優しく、という言葉をなんか履き違えて男を弾圧するバカもいたし。金子みすず、朗読させられたねえー。なんだったんだあいつらは。

大学ぼっちよ、君は「孤高」でも「ダメ人間」でもない

大学の先輩と食事したときに、そのひとは、人間に欠点などない、といった。ぼくの直感だと、最近、世の中はどんどん相対主義の考え方をとるようになってきていて、この発言もその一貫なんだろうとおもう。ぼくはこういった格言めいた言葉自体がきらいなのだけれど、それは一旦おいといてもこの発言はちょっと極端だろうとはおもう。
が、言いたいことは非常によくわかる。もしもその先輩が欠点だらけだったら今こんな調子で記事を書いていないだろうけれど、実際、その先輩、すげえーイイ人なのである。少なくともそう見える。要するに、話も面白くて、後輩に対する気配りも非常によく、差別しないし、気分にムラもないし、だからといって媚びている、ムリしているなどということもない。自然体である。ぜんぜんタイプのちがう無気力で自分勝手なおれみたいな奴も、ベタな言葉でいえば「個性」として扱ってくれているかんじがするのである。「人間に欠点などない」というアフォリズムを、ちゃんと体で表現している。

しかもその先輩のみじゃなく、サークル全体でそういうひとたちがうじゃうじゃいる。

若干コワいのだ、これが。間違ってもそれは「ウラではどうだかわからない」というような恐怖じゃない。演技してる、仮面をかぶってる、偽善的、ぬるま湯的馴れ合い、などなど、綿矢りさが「蹴りたい背中」で書いたような、友達が出来ないタイプの人間が友達の多い人間に向かって吐き出す紋切り型の呪詛は、ここでは通用しない。自分の欠点をも「キャラクター」として扱ってもらう、そのことによって一層そこに馴染めない自分を自覚させられる、という事態がここであらわれる。楽なんですよね、呪詛していたほうが。本当は。仮想敵を作ることで自分のスタンスを固定できるからね。自分の想定した敵がどこにもいない、と気付くとき、ぼく(たち)は、ついに自己嫌悪から逃げられなくなる。

しかし、ぼくをひとつの「個性」と認めてくれている彼らも、もし企業の人事部の人間だったら、間違いなくぼくを採用しないだろう。それはぼくが「悪」だからではなく、「必要ない」からだ。このことをどう捉えればいいのか。

要するに、「善・悪」はないけれど、「損・得」は、確実にあるのである。内向的なのは「悪」ではないが「損」だろう。運動音痴なのは「悪」ではないが「損」だろう。勉強できないのは「悪」ではないが「損」だろう。

ネットでは「ぼっち」といわれる人たちがうじゃうじゃ湧いていて、日々「非ぼっち」との戦いを繰り広げている。ぼっちは非ぼっちの没個性を笑い、非ぼっちはぼっちの、コミュニケーションに対する努力不足を笑う。相対主義と絶対主義の終わりなき戦いだね。
損・得という言葉は、性格に関してあまり使われない言葉な気がするけれど、絶対主義にも相対主義にも傾きすぎないという意味で、けっこう有用なんじゃないかとおもう。「損」側が開きなおることも、「得」側が「損」を自分勝手に糾弾することもなくなる、あるいは、少なくともそういう状況にはなりづらいんじゃないか。それでいくぶんか「寛容」のレベルも上がるだろう。

まあ、かくいう僕もぼっちでした。ぼっち、といってもたぶん軽度のぼっち。べつにしゃべる奴は結構いた。が、つまらないのである。ぜんぜん面白くない。つーか、話題の波長、というか、感性のツボがあわなくてなんかギクシャクするのである。あー、、つまんね、と思って、適当な話題を考えるのも面倒になって、それは僕が悪いのでも相手が悪いのでもないのだけれど、黙ってたほうが楽じゃん、となってしまった。おまけに中高一貫校にいたから一からの友達づくりは久々で、つまらない会話を持続させてまで輪の中に入ろう、という気概がなかった。まーそのうち出来るっしょ、みたいな。その気概のなさは、何度でも言うがべつに馴れ合いの拒絶という「孤高」のものでもないし、「努力不足」などといって糾弾されるようなものでもない。単に「めんどくさかった」、それだけであり、それ以上の何をも意味しない。

高校までふつうに友達がいたのに、大学に入ったら孤独になった、そういう人は意外と多いんじゃないか。だいいち、大学は自由で楽しいところ、という言説があまりに浸透しすぎて、「楽しくなければならない」という強迫的な意味合いすら込められてきているように思う。コミュ力、というキチンと定義されていない言葉もその一端を担っているだろう。ここには、「人生楽しまなきゃ損」という言葉にあるような、やたらポジティブで元気な人間たちの(「損」な人たちへの)無自覚な追い打ちを感じる。

ぼっちを経験して気付いたけれど、大学と高校は、友達の作り方が根本的に違う。特に私立大学で人が多いとね。「個」と「個」の関係から入っていくのが高校だ。席が隣になった、班が同じ、みたいなところから「個」同士の関係を開始して、深まり、というのを複数回繰り返してやがて連鎖的に集団を形成していく(あるいはしない)。部活でも基本的にこういう形だったように思う。が、大学は、まず集団として関係が開始する。おもに飲み会を通して、複数の「個」と同時並行的に、網羅的に深まっていくことが求められる。ぼくの場合ゼミとサークルがそんな感じなのだけれど、特徴は、仲良しグループが出来ないことだ。一部(ぼっち)を除きみんな平等に仲良しである。飲み会では一か所にとどまらず、みんな移動するからその都度さまざまなグループが生まれるが、決して固定されない。連鎖的関係形成の仕方しか知らない、あるいは出来ない、一対一の安定的な関係を望む「損」な人は、早くもここで締め出されるだろう。で、外から眺めて、「あいつらの関係は薄っぺらい、うわべだけだ、馴れ合いだ」という。事実その通りである。が、そうしているうちに自分を締め出したまま「集団」は「集団」として関係がどんどん深まっていく。初期の「薄っぺらさ」はいつの間にかなくなる。仮想敵の喪失。周囲からは「暗い人」との烙印を押され、その役割を演じざるを得なくなる。自己嫌悪と仮想敵創出のスパイラルがここで開始する。ゲームオーバー、である。

ぼくは、たまたま笑いをとることができるという「得」な性質をわりと昔からもっていたから、もう最近はその笑いを武器に集団に突っ込んでいく形で、なんとかなり始めている。笑い、つっても陽気な笑いではもちろんない。ネガティブ方面にベクトルの強い、自分も他人もすべてを茶化すブラックな笑いである。そういうのもう高校でやめようと思って大学では封印したのだけれど、結局、ぼくはもう根っからのネガティブ体質なのでした。カッコつけて斜に構えてたわけでも、クールぶってたわけでもなかった。ネガティブはもうネガティブなりに、もう元気よくネガティブ方面に突き進むしかない。会話なんて基本的には「存在の発信」でしかないのだから、発信したもんがちである。シニフィアンの投げ合いである。とりあえず大きめの声で、発言する。もう思考・感情垂れ流しですよ。それがわるいとも思わない、すくなくとも今は。疲れるけど。気の合う人とだけ、だらだら、互いに笑わせ合いながらしゃべってたいけど。

アイドルのウンコが「世界」を内包する(木下古栗論)

中原昌也だとかカミュだとかを語るのってけっこう勇気いる。だってもうプロの文芸評論家だとか文学部の学生だとかがさんざん語りつくしてるだろうからね。でも木下古栗はちがう。中原昌也よりもおもしろいのに、ほぼだれも語ってない。もったいないことであるね。つーことでこれが世界初の木下古栗論になるでありましょう。ま、論、ていうほどアカデミックなものかけませんけど。

木下古栗とは何者か。今まで記事にした作家のなかで圧倒的に無名なのでざっと紹介してみると、1981年生まれ、2006年に「無限のしもべ」で第49回群像新人文学賞を受賞し、その後もコンスタントに作品を発表するも未だ単行本化されずにいる不遇(?)の作家である。09年に書き下ろしを集めた「ポジティブシンキングの末裔」が早川から出てようやく単行本化を果たす(群像に載ったのは未収録)。中原昌也古井由吉の影響を受けている、と言われている。

で、どんな作風なのかといえば、一言でいうと下ネタである。官能、ではない。サドとか谷崎潤一郎とかみたいな耽美的なものではなく、彼が書くのは単なる、中学生レベルのくっだらない下ネタだ。その下ネタを、豊饒な語彙を駆使して徹底的に書きまくるのである。で、下ネタを書きまくるということが一体どういう意味を持つのか、いや持たないのか、これから考察してこうというわけなのでした。

①アイドル言語の権威剥奪
ソシュール記号論てけっこう有名ですけど一応説明しときますと、ぼくの目の前に今一本のエンピツがある。エンピツ、といわれて今あなたが想起した長細くて先端のとがったモノが「シニフィエ」、そして「エ/ン/ピ/ツ」という音の連なりそのものが「シニフィアン」である。「意味」と「響き」、と言い換えることも可能であるね。で、ぼくはここで便宜的に「シニフィアン」の定義をすこし拡張させてみようと思う。つまり、ある言葉を発するときそこに付随するイメージ、言葉が表示する「概念」以外のものを勝手に「シニフィアン」と呼んじゃうことにしましょう、てわけです。

ひとがシニフィエシニフィアンの結合体である「言葉」を耳にするとき、そのどちらをより優先的に情報としてキャッチしているか。シニフィエだと思ったアナタ。ブブー、である。ぼく(たち)はそこで言われている「内容」よりもその周辺にある情報、その言葉に付随するイメージから「内容」を類推することが圧倒的に多い。

だから、言葉に酔うのは実はすげえ簡単なことなのである。上に書いたような性質をうまく利用すればいいだけだ。要はそれっぽい言葉をそれっぽく使えばいいのである。感受性豊かに見せたければ「きらきら」「幸せ」「虹」「光」みたいな明るいイメージの言葉を倒置法やら問いかけやら体言止めやらで終わらせればいい。最近の流行りは同じ文構造を繰り返して語尾を「んだ」にすることだね。繰り返し&語尾「んだ」。これで頭の弱いギャルは号泣である。

今部屋には
27枚の写真が貼られている。

二人の写真。

ヒロが撮った
美嘉の写真。


二人で笑って
二人で生きた記録。


【“君は幸せでしたか?”
と聞かれたら俺はあの頃と変わらずこう答えるだろう。
“とても幸せでした”と。
そして“今も幸せだ“と答える。
美嘉は幸せでしたか?】


美嘉は幸せでした。

あなたに会えて
幸せでした。

あなたに愛されて
幸せでした。

あなたを愛して
幸せでした。

そして私は
今も幸せです

とてもとても
幸せなのです。


ヒロ…
ヒロ…愛してる。
ずっとずっと。
ずーーっと。



青い空。
白い雲。

どこまでも続くこの空はヒロへと繋がっているよ

だからいつでもあなたはそばにいるんだ
いつも見守ってくれているんだ


もしもあの日君に出会っていなければ

こんなに苦しくて
こんなに悲しくて
こんなに切なくて
こんなに涙が溢れるような
想いはしなかったと思う。

けれど君に出会っていなければ
こんなに嬉しくて
こんなに優しくて
こんなに愛しくて
こんなに温かくて
こんなに幸せな
気持ちを知ることも出来なかったよ…。

ご存知「恋空」からの引用である。分析してみよう。ここではすべて体言止め、同じ語尾の連続、そのどちらかが用いられている。そして最後「んだ」「んだ」2連続、怒涛の「こんなに〜て」連打、そしてシメに「呼びかけ」法である。もうイチコロだね。「それっぽい言い回し・言葉」を使うだけで中身なんざなくとも文章、それも素人目には「名文」に見えるものなんか書けちゃうということに、無自覚なやつって意外にに多い。中身がないのに、そのパッケージだけで相手を圧倒できる言葉、それを今から「アイドル言語」と呼ぶことにしますが、ぼく、大学でフリーペーパーつくったりするサークルに入ってるんですけども、文章みれば、あーこいつ文を書くってことがまるでわかってねえなー、てすぐわかっちゃいます。ゴーマンな言い回しごめんなさい。でもほんと。ふだん文章に慣れしたしんでない奴に限って自分の非「キー・パースン」性(中原昌也の記事参照)にも「シニフィアンの優位」にも無自覚だからねー。なんか立派なもの書こうとやたら肩の力はいっちゃって、あげく体言止めと倒置法と「アイドル言語」のオンパレードになっちゃうの。内容は凡庸きわまりないのにやたらポエムポエムしてる。まあ書いてる本人はキモチイイイんでしょうけど。たとえばこんな。

孤独な暗闇で震える私に、あのとき君は小さな、でもやさしい灯りをそっと差し出してくれたね。
ずっとずっと、淋しかったんだ。
ずっとずっと、悲しかったんだ。
でもそれと同じくらい、いま、私の胸は君がくれたぬくもりで溢れているんだよ?

もうカンドーだね。癒されるね。コトバの力を実感するね。こりゃ間違いなく全米が泣くね。号泣だよね。誰が書いたのかというと、まあ、僕がいま即興で書いたんですけど(笑) 公式にのっとれば(ほとんど)誰でもこんなもんペロッとかけちゃうのである。しかしまあ、ポエミックなアイドル言語を茶化すのは簡単だし、すこしの知性さえあればこんなもののマガイモノ性にはすぐに気付くのだ。シニフィアンの定義を、さらに拡張してみよう。ここではシニフィアンの定義に、言葉の音、そこに伴うイメージのほか、それが発せられたときの「文脈」発信者の「表情」「社会的地位」さらには背後に流れる「音楽」まで含めることとする。言語学的にはもっといいタームがあんのかもしれないけどそんなん知らない。ちょっと脇道に逸れますがシニフィエシニフィアンをあえて極端に乖離させ、それを笑いに変える、ということをやっている芸人がいます。この人。

バカリズムの「贈るほどでもない言葉」。感傷的な音楽、表情を背景に繰り出される瑣末な事柄。ぼくは爆笑しました。この芸人、基本的にこういうネタが多い。最初はベタで凡庸な設定をあえて採用するものの、瑣末な細部に固執した挙句、通常想定される「流れ」からどんどん逸脱していく、といったような。ちなみに、このバカリズムという芸名も「アフォリズム=格言、金言」に由来するんじゃないかと思うんですけどどうでしょう。
しかしまあさっきも書いたように感傷的アイドル言語を茶化すのはわりと頻繁にやられていて、茶化されてるのにも気づかずに相変わらずアイドル言語とうちゃうちゃ戯れているのは一部の馬鹿だけだろうとは思うわけですが、もうひとつ厄介なものがある。知的アイドル言語だ。これが曲者である。「近代」「○○主義」「カント」「ニーチェ」「蓋然性」「〜において」などなど。しかもこれらのタームを使わないと語りえないことも確かに存在しうる(……?)から厄介だ。知的アイドル言語が出てくるとギョッとする。やべえ、おれ頭悪いからわかんねえ、と委縮する。そこに内容が伴っているのか否か、判断するにはそれ相応の知性が必要となってくる。たとえなんとなくうさんくせえなあ、と思ったとしても、自分に知性がないだけかもわからないから、バカにされたくないから口にだせない。嘘だと思うなら友達とすこし真剣な話題に移ったときに、上にあるような言葉をちょいちょい差しはさんでみましょう。シニフィアンは場を背負うからね。途端にみんな神妙な顔つきになって訊き始めます。いやマジで。「ふだんはバカやってるけど実は知的なワタシ☆」の発動である。なんなら「人生」という言葉でもいいけどね。もれなく「深い」という一言がいただけますから。いやホントに。
ところがこうした知的アイドル言語を使って下ネタを語ることによって、その言葉たちの権威を引っぺがし、相対化する作家が表われた。木下古栗である。

1.私は、慎みと抑制を基調とする性的自戒を誠実に堅持し、性欲の発動たる勃起と、律動による快感又は精液の射出は、性欲を解消する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、漫画写真映像その他の猥褻物は、これを保持しない。私の交接権は、これを認めない。

「受粉」より引用。憲法9条のパロディである。あるいは、「自分――抱いてやりたい」(ポジティブシンキングの末裔)にて、便秘から解放されたときの体験を肛門自らが語りだすシーンではこんな調子だ。

一方、俺は溜まりに溜まっていたものをとうとう吐き出して空っぽになった、言わば空虚の充実感を覚え、その尽き果てた感覚の乾いた甘みに覚醒した意識で、何もない部屋に差し込む白い光に目も眩むがごとく陶然と穴を解放したまま粘膜を震わせていた。理性の我慢も、終わりなき心身の苦悶も、感傷も懊悩も削げ落ちた俺は便秘を吹き飛ばして本能の喜びを大爆発させ、生理的欲求の赴くままに次から次へと流出を繰り返した。水を得た魚のように脱糞を連発した。まさに本領発揮だ。下劣なショックで食欲を失ったこいつがろくに食物も摂取しなくなると、所構わずありったけのガスを不意打ちで噴出して爆音を奏で、文字通り汚い手段で緊急の補給を訴えた。俺はもはや穴ではなくその空洞、そこに疼きそこを通るあらゆる現象それ自体、つまり便意と排泄そのものになり、遂にはたとえ胃にも腸にも内容物が一切なくとも常時便意を排泄欲求を生じさせる特殊能力を手に入れた。肛門に新境地を開いたんだ。

見事、の一言です。6ページ近くこの調子で肛門とその持ち主との格闘が饒舌に語られる。語彙の豊富さが知性の証明だと思っているボキャブラリーフェチの連中はこれを読んで何を思うのか。くだらない、と切り捨てるのか。まあ、確かにくだらない。作者も無論くだらないと知ってこれを書いているだろう。しかし問題は、こういった硬質で知的な語り口でこれほどまで馬鹿げた事柄を書きえてしまう、その事実をいかに捉えるかである。普段ぼく(たち)が接する言語というのは、「シニフィエ」と「シニフィアン」が密接に結びついている。この「結びついている」ことが当たり前のものとなりすぎて、その恣意性を疑うことすらなくなっているから、格調高い(ということになってる)「シニフィアン」だけを受け取って勝手に「深い」「シニフィエ」を想定するという事態が発生するんじゃないの。だから木下古栗はここであえて情報価値として最低の「シニフィエ」(=下ネタ)と格調の高い(とされる)「シニフィアン」(=憲法の条文etc)を強引に組み合わせ、両者の乖離を最大級に拡大させることで、言葉は単に言葉でしかないこと、その恣意性を暴きだすのだ。語ること、語られることの本質はどこにあるのか、あるいはないのかという問題を、木下古栗は読み手に突き付ける。
ここで木下古栗が試みているのは、中原昌也が行った「紋切り型の多用」「物語の異物化」からさらに一歩進化(深化?)したものだ。アイドル言語の権威剥奪。ここで木下古栗は言葉のひとつひとつを相手取っている。無理やり例えを出すと、中原昌也は最初にアイドル(=形骸化した権威)の隣にウンコを並べ、次にアイドルにウンコをこすりつけることで、アイドルの地位を相対的に貶めようと試みた。次のステップは何か。要するに、アイドル自身にウンコさせてしまうことである。木下古栗は言い回しのみではなく単語レベルでそこにこびり付く権威、イメージをはぎ取ってしまうことに成功したのだ。
そしてもうひとつ重要な点が、木下古栗の文章にあるその音楽性である。句読点の位置まで完璧に計算されつくしているから、文章が、つるつると快く頭の中に入ってくる。つまり、中原昌也ニートピア2010のなかで目指した言語リズムの獲得を、「アイドル言語の権威剥奪」と同時進行で成し遂げてしまったというわけだ。


木下古栗というと必ず中原昌也との比較で語られるので、ここで一旦あえて前田司郎との関連性を指摘しておきたい。前田司郎。2009年に三島賞をとったり、ちょくちょく文学賞の候補にあがってくる人ですね。演劇出身らしいのですけども。で、この前田司郎がインタビューの中でこんなことを言っている。

――私は、前田さんの小説の中で「ウンコに代わる次世代排泄物ファナモ」(『恋愛の解体と北区の滅亡』収録作)が一番好きです。トレンディードラマを地でいくオシャレな男・タクヤが、ウンコを「次世代排泄物ファナモ」に代えるに至る事件が描かれているわけですが、とにかく笑いました。皆が思っている恥ずかしい感じを代弁してくれた感じでした。


前田: 格好つけたい気持ちというのは、誰にでもあると思います。僕だってあります。でも、突き詰めてやってしまうと絶対にボロが出る。颯爽とオシャレな人だってウンコはするし、カップやきそばの湯切りをしくじって「熱ッ!」となることもあるはずです。僕は、そういう姿を隠すほうが恥ずかしいと思うんですよね。


――前田さんは、そういう恥ずかしさを、否定ではなく愛をもって描きますよね。


前田: オシャレ感そのものは否定しません。ただし、作者の都合のために綺麗にオシャレにまとめてしまうことは、ダメだと思うんです。例えば、映画「世界の中心で、愛をさけぶ」で一番盛り上がる「助けてくださ〜い!」のシーン。あんなこと、あり得ない。あんなに自分たちに陶酔できるはずがない。倒れるときに顔面を打っちゃったり、涎が出たり失禁したりすると思う。メイクだってしていないはずです。場所も空港なんだから、近くで不倫カップルがいちゃいちゃしていたり、喧嘩している家族がいたり、「あらちょっとアンタ大丈夫?」とか言って寄ってくるおばちゃん集団がいたりするかもしれない。

ぼくが初めて読んだ前田作品である「恋愛の解体と北区の滅亡」とそのカップリング「ウンコに代わる次世代排泄物ファナモ」は、作者自身が語るように、作者の手によってキレイに整えられた「世界の中心〜」のような作品世界へのアンチテーゼとして、物語の流れからはみ出る「余計なモノ」、現実の細部に宿る「みみっちさ」「ダサさ」の総体として出来あがっている。「みみっちさ」の象徴としてあるのがウンコというわけです。こう考えるとバカリズムともすげえ似てるな。
「ウンコに代わる〜」は、超絶ええかっこしい男のタクヤが彼女とのロマンチックなデート中、ウンコをもらしてしまい、その後(二度と同じ過ちを犯さぬよう)ウンコまでをもオシャレに変えてしまう、という話だ。解釈は簡単にできるね。要するにここでは、タクヤの意図した「物語」がウンコ=物語からはみ出た「現実」によって破壊される瞬間を描いている。
あまりにストーレートでわかりやすいので面白いもののめちゃめちゃ好きな作品というわけじゃありませんが、問題は「恋愛の解体〜」である。宇宙人による攻撃によって今晩日本は滅亡するのではないか、という噂がまことしやかに囁かれている世界で、「ぼく」がコンビニの順番待ちをマッチョな男に抜かされたことをキッカケに殺意をやどらせ、殺人を実行することを思いつくが、何をどう間違えたのか最終的にSMクラブに行きつき、そこで「女王様」と一緒に宇宙人による北区攻撃の様子をテレビで見る、という話である。梗概説明しても全くわけわかんねえな(笑) コンビニでの事件からSMクラブでテレビを見るまでの数時間が切れ目なく語られるこの小説は、その表現形式自体が物語(=断片の作為的つなぎ合わせ)への反抗となっているわけですが、作品内で繰り返されるのもそういった「大規模な/ドラマチックな」物語的事象と「みみっちく/一貫性の欠いた」リアルとの比較対照である。これほど「リアル」な小説、ぼくは見たことがない。たとえば宇宙人の登場をテレビで見るシーンにて。

 サンシャイン60の屋上にUFOが乗っかっている。宇宙人が出てくるまでの間、カメラはUFOを撮っていた。やっぱり銀色で鈍い光を放っているが、良く見ると、所々ネジのようなものでとめてある。アップで写すと、虫の死体がベチャベチャと結構な数、張り付いていて汚い。(中略)
 ややあってから、足が見えた。宇宙人の足だ。薄い緑の布のような色をした足だ。ゆっくりハシゴを降りる。危なっかしい。足で段を探り探り降りてくるから、いつ足を踏み外すんじゃないかと、見ててハラハラする。それでも僕は初めてパンダを見たときくらいは感動したんだと思う。もうパンダを見たときの気持ちは忘れてしまったが。 
 宇宙人がサンシャイン60の屋上に降り立った。小泉首相のアップになる。首相はいつになく緊張した面持ちであった。今、歴史が確実に作られているのだ。などと、僕は出来るだけ自分を盛り上げてみたが、なんだかそんなたいしたことには思えない。ちっちゃい緑色の全裸の生き物と小泉首相が結構な距離を隔てて対面しているだけなのだ。

宇宙人のショボさ加減、期待はずれ感が素晴らしい。「UFOにへばりつく虫の死骸」や「恐る恐るハシゴを降りる宇宙人」なんて、ハリウッド映画的な貧困な想像力では絶対思いつかない描写だろう。ここで「僕」は、宇宙人が出現するという大規模な事件に対し、上手く距離をつかめずにいる自分を発見する。「歴史的瞬間」も所詮一個の「風景」にすぎないことに、「僕」は驚く。宇宙人にまつわるイメージ(知性、冷酷さ、神秘性)に「ハシゴ」「虫の死骸」という要素があまりにチグハグに思えたからだろう。宇宙人との遭遇という「物語」が現実に突き破られた瞬間だ。ここで描かれているチグハグ感、アンバランスさというのは、でも実はぼく(たち)にとって非常に身近な感覚ではないか。勘違いしないでほしいのだが、ぼくがここで言わんとしているのは「理想と現実のギャップ」とかそういう類のものではない。そういう「現実は残酷だよ」的なベクトルで安直なニヒリズムを語りたいわけじゃなくて、もっとこう、なんだろ、「現実」をもっと人間の想像力では容易に捉え難い不定形でぐにゃぐにゃしたもの、いびつなものとして語ろうとしているわけです。
たとえば、憧れの野球選手が歩いているのを見て、「わ、なんかフツーのおっさんだ」と驚くあの感覚。もちろん「フツーのおっさん」に決まっている。そんなことわかっている。しかしなんか驚きたくなってしまう。
たとえば、アイドルだって人間であるからにはウンコする。あのかわいい上戸彩も、宮崎あおいも、前田敦子も個室にこもって太いうんちを尻の穴からひり出すのである。それもわかっている。が、それを「知識」としてでなく「実感」としてわかっている人間がどれほどいるのか。
あるいは、ぼくの所属するサークルで雑誌について会議した時に、たまたま、「森ガール」についての記事と「紛争地帯」についての記事が並ぶのは不自然だよね、という話になった。もちろん気持ちは非常によくわかるのですけども、きっとこの発言をしたひとは「アイドルはウンコしない」と言い張るタイプの人間なのだろうなと推測できる。「森ガール」も「紛争」も「SEX」も「涙の別れ」も「脱糞」も「爆笑コント」も同時に起こりうるのが「世界」の姿なのである。「アイドル」が「ウンコ」するのが「世界」の本質なのである。「アイドル」と「ウンコ」を分離するのは、「森ガール」と「紛争」を分離するのは、人間の恣意にすぎない。人がこしらえた物語の中では、アイドルがウンコする描写は出てこないだろうけども。その意味で、アイドルのウンコは人間が普段安住している「物語」を破壊し、「世界」の生の姿をむき出しにするだろう。

さて。ここで話を元に戻します。木下古栗は、さっき書いたようにほぼ全編にわたって「アイドル」化された言語たちをつかって、下ネタを語る。木下古栗を読んだとき感じる面白さはこのチグハグ感から(も)来るところが大きいわけですけど、それはまさに木下文学がひとつの「アイドルのウンコ」として機能しているからではないか。「恋愛の解体〜」の中ではいまだ「アイドルのウンコ」は作品内の要素として登場するのみだが、木下古栗の作品はそれそのものが「アイドルのウンコ」として、「世界」を内包しているのである。すげえー

②唯一風景と無限言語
「恋愛の解体〜」は、始まりから終わりまでずっと「僕」の自意識だだ漏れ状態で語られる。考えていることは「愛とは何か」みたいにやたら遠大で哲学的だったりするのだが、その思考もあくまで「僕」の体から発せられたものであり、だからすれ違った女のひとがノーブラであると気づくと直ぐに思索を中断して透け乳首の確認を急いだりする。描かれるのはあくまで身体から半径数メートルの出来事、要するに「僕」が実感を持って知覚できる範囲のみである。この狭い実感世界と「北区滅亡」という情報世界との対比自体が面白いのだけれど、一番最後のシーンで、この二つの世界がついに並列される(交わることはない)。
どういうことかというと、「僕」は「愛」の本質を知るためにわざわざSMクラブへと足を運ぶのだが、結局SMプレイに気分がのらず、フツーに「女王様」とセックスする流れになる。が、エナメル服を脱がそうとしたらマン毛がチャックに引っかかってしまい、なんとかチャックをおろそうと試みているときに、テレビ中継で宇宙人の攻撃が映し出される。北区が宇宙人によって攻撃されている。結局日本そのものは滅ぼされず、東京の一部、それもとりわけ地味な(すいません)北区が攻撃されるに留まるというのもまたすげえリアルなのだが、それにしたって大事件にもちろん変わりないわけです。そこで「僕」と「女王様」はどうするか。どうもしないのだ。「わー攻撃されてるね」みたいなことを言いながら、北区滅亡の様子とマン毛を交互に見ている。そこで小説は幕を閉じる。

そもそも民主主義の理想とは、自分たちの所属する共同体に関わる政治的事柄について、個々人が自分の頭でよく考え、それぞれの意見を形成し、互いに議論することで(意見をぶつけあって)よりよい結論を出して共同体の命運を決することだった。情報世界のサイズと実感世界のサイズが合致してたらそれで良かったでしょう。遠い昔の村社会とかね。ところが、もういまやグローバル社会で情報社会ですから、情報世界がどんどんどんどん肥大してきているのだ。実感世界もまた同時進行で肥大してくれればまあ話は単純なのですが、残念ながら人間の実感範囲は相変わらず周囲数メートルしかない。そして、悲しいことにひとは実感世界の中でしか生きられない。当たり前だね。この「身体」から人間は逃れられないのだ。共同体の規模が大きくなり、情報世界のサイズが実感世界のそれを超えてくると、共同体の政治的事柄に関する情報を出来るだけ個々人が「実感」を持てるよう伝達する役割を、マスコミが担うこととなる。憲法の中でも「表現の自由」やそこにある「知る権利」がとりわけ重要視される理由はそこにあるわけですけど、でも、果たして本当にマスコミはきちんと機能してるのか。

いや別にベタなマスコミ批判がしたいわけじゃないけど。でも例えば地球温暖化、さんまが司会だったかな、年末の番組で地球温暖化の「嘘」が暴かれているのを見たときには衝撃受けましたよ。なんていうとおれのリテラシーのなさが露呈しちゃう? しかしぼくは別にこの場で、温暖化なんて嘘いいやがって、ふざけんな、と憤りたいわけでは全くない。というか憤っちゃったらホンモノのバカである。地球温暖化が本当に「嘘」なのかもぼくには判断つかない。つまりぼくは、「温暖化」に関する膨大な情報に対して、そのとき圧倒的に無力であったわけです。
ぼくがここで言いたいのは、情報世界の不可疑性、ということだ。不可疑性でぐぐると、どうもこれ現象学のタームらしく、読んでみてもなんか難しくてよくわかんなかったのですが(笑)、この専門用語とは別の意味で今はこの言葉をとらえてほしい。そんなムツカシイ意味でこの言葉を使ってるわけじゃない。要するに実感の外にある情報を、「疑おうにも、疑いえない」ということである。疑いえない、は言い過ぎかもわからないが、しかし例えば物理化学がもう大嫌いなガチガチの文系のぼくにとって、温暖化問題が一体どこまで「本当」でどこまで「嘘」なのかもう全然わかんないのである。正直何を信じていいのか全くわからない。もちろん物理化学を勉強して文献をしらべまくれば知識もついてきて段々判断力がついてくるのかもわからないけど、しかし、共同体の政治的事柄はなにも温暖化だけじゃないのである。尖閣諸島って一体誰のもんなのか。南京大虐殺では結局何人殺されたのか。ゆがんだ歴史観を植えつけられて「尖閣諸島を返せ!」と暴動を起こしてる中国人を見てぼくは「ばーか」とせせら笑うわけですが、同時に、一抹の不安も覚えるわけだ。騙されてんのはもしかするとぼく(ら)の方だったりして、と。そしてそれを確認・実感する術は(究極的には)ない(ホットな問題なので誤読する馬鹿を想定して一応言っときますが、あくまで「情報世界の不可疑性」、「可能性」の話をしてるのね。わかってね)。

これって要するに、人は実感世界にしか生きられない、というのとほぼ同義なわけですよ。つまりマスコミは結構いいかげんな情報操作をしている(らしい、あくまでね)のですが、仮にマスコミが誠実に、(出来る限り)客観的に情報をわれわれ個々人に提示してくれているにしても、なんか根本的に信用しきれないような感覚は残るだろう。要するに、単純に言えば、「他人事」なのである。もう情報世界が肥大しすぎたあまり一個人が実感するキャパを超えちゃっていて、ぼく(たち)は、もはやそれをチャックに引っかかったマン毛と同程度の重みとしてしか受け止められないのである。

ここで民主主義の理想が崩れ始める。もちろん、勉強を重ねて情報収集に徹すればあらゆる社会問題に「自分の意見」を持つこともできましょう。しかし、根源的な感覚では「他人事」な社会問題に関して、民主主義の理想などというオーギョーな理念のために時間を割こうなんて気には怠惰なぼく(たち)は到底なりませんし、それに、ほぼニート大学生のぼくと違って社会人のひとたちは仕事で大忙しなのである。仕事、家族、恋愛、などなど実感世界の問題に対処するのに精一杯で、温暖化なんぞ知るか、って感じなのである。しかも、ここだけの話、民主主義が前提にしてる「個々人」てけっこう馬鹿ですしね。ははは。シニフィアンの優位にも無自覚だ。社会にしゃべらされているだけの可能性もある。さらに追い詰めると、詳しくは「人それぞれ」の記事で書きましたけど、仮に個人が自分なりの意見を持ちえたとして、議論なんてのは基本的に不可能なものなのですよ。個人の意見ていうのは突き詰めれば結局「感覚」「好み」の問題に帰着するのですけども、その「なんとなく」の感じを言語化するのは困難極まる作業なわけです。だから、議論を突き詰めれば突き詰めるほど、「なんとなく」の部分で食い違っている他者の、いわば「他者性」が身をもって実感されてくるのだ。

なぜ、俺の言うことがこれほどまでに通じないのか?なぜ、こいつの言うことはここまで理解しがたいのか?とまとめるとこの二つの感覚が議論を通じて立ち上がってくる。議論を「他者と意見交換するためのもの」と考えるのは非常にオメデタイ発想でして、本当は、議論とは「絶対的な真実」としてほぼ固まりかけていた「個人的な意見」が、他者の他者性に直面することで相対化され、再構築を迫られる徹底して内省的な作業なのである。

実感世界にしか生きられぬ人間は、そこで、みずからの経験(実感世界で生きた産物)をもとに人生を語ろうとする。が、これについてはさんざんこのブログに書いてきたので簡単にすましますけど、非常に困難なのである。つまり「人生論」には「人それぞれ」の部分と「人それぞれ」じゃない部分があり、もっといえば「人それぞれ」を一般性が緩やかに囲っている。卑近な例で言うと、たとえば美の基準ね。平安時代の美女が現代の感性からすると救いがたくブスであることからわかるように、美もまた文化的に形成されたものなのであるが、しかしだからといって美が完全に固定されているわけじゃない。綾瀬はるかが好きか、宮崎あおいか、ガッキーか、佐々木希かは「人それぞれ」の好みの問題だ。その中で一体何を語るのか。今おまえが語っていることは、単に「社会にしゃべらされている」だけではないのか。すでに考えられ/表現されつくした事柄ではないのか。あるいは逆に、特殊な経験を一般化して語っているだけではないのか。つってね。これらの障害をくぐりぬけたとしても、情報の受け手は(基本的に)馬鹿だから結論だけ受け取って、結果、その言葉はあっという間に形骸化する。その中で一体何を発信しうるのか。

何にも発信できないのである(笑) 少なくとも木下古栗は、もう何か価値あるげな言葉を吐くことを完璧に放棄してしまった。「下ネタ」を徹底してエネルギッシュに書きまくるという木下古栗の行為は、それ自体で言葉に関するもろもろの「信頼しがたさ」に無自覚なままの人間たちに対する優れた批評となる。下ネタは、なぜ「くだらない」のか? それは実感世界内部の、誰もが認識している普遍的事柄だからである。あからさまに「表現されるに値しない」ものを自覚的に、過剰に書くことは、つきつめれば「表現されるに値しない」ものを、表現するに値すると信じこんで自己顕示欲に任せて垂れ流す行為のアンチテーゼとして働くだろう。それは木下古栗なりの、非「キー・パースン性」の自覚である。彼は中原みたく「書きたくない」「書けない」とすら書かない。「書けない」「書くことがない」と「書く」のではなく「表現」する、それも中原みたくユーウツになるのではなく、元気よく表現しまくる木下古栗は、作品へ向かう態度として既に完全に分裂しているのであり、だからぼくはここで、重松清的「逆接の思考」を見出だしたいのである。表現することが何にもない、けれど、書く、「自覚的に」くだらないことをエネルギッシュに書きまくる木下文学とは、単なるたんぱく質の塊でないことを証明するため言葉を吐かずにはいられない人間の実存に対する、なかばヤケクソ気味の肯定なのである。

「ほあっ……」
 しかし豊丸の舌先が追い打ちをかけてきて、栄治はまたしても悩ましげに喘いでしまい、股間を突き出すだけでなく背を弓なりに反らせながら、頭の天辺まで細やかな震えを走らせた。その隙を突いてどこからともなくいそいそと駆け寄ってきた十歳にも満たぬ少年が、まだ前側は辛うじて覆っていた栄治のパンツを無情にもずり下ろしたので、とうとうパンツは足首にまで降りてきてしまった。勿論、そうする間も疣を舐める愛撫はいささかも疎かにされず、絶妙な舌遣いで執拗に攻められる栄治はもう諦めて、おとなしく快楽に身を任せることにした。体は正直だった。いやしかし、いくら肉体の快楽を覚えようとも、潔癖な精神だけはどうしてもこんな惨状に耐えられない、精神衛生上許せない。
「汚らしい真似はよせと言っただろうが!」
 意志の力を振り絞って振り向きざま猛烈な怒声を浴びせかけた。すると驚くべきことに、見えない平手に張られたかのように突然、頬を打つ音がして豊丸の頬が勢いよく真横に背けられた。一瞬、何が起こったのか誰一人として認識できなかったが、よくよく目を凝らせば単に体ごと向き直った栄治の、股間の隆々たる突起が立派な凶器と化して豊丸の頬をしたたか痛打しただけだった。(淫震度8)

……。
もうこのバカげたシーン読むと、お前の解釈ほんとかよ、と自問したくなりますね。

中原昌也は、かつて自作について「勘違いしたバカが褒めているだけだ」と言っていた気がするけれど、たぶん(というかまちがいなく)ぼくもまた「勘違いしたバカ」である。でも言い訳させてもらえば、文藝評論のほとんどは、もっといえば「社会」やら「人生」やらについてのもっともらしい理論は、そのほとんどは「勘違い」ではないのか。世界はおそらく言葉として捉えるにはあまりにも複雑かつ単純かつ滑稽に、確固たる「風景」としてただ唯一無意味に存在していて、言葉という膜に覆われて暮らすぼく(ら)がそれを無限に解釈し、無限の言葉を生みだしているにすぎないんじゃないか。結果、思考を突き詰めると言葉は意味の不在の中心をぐるぐる、ぐるぐる、空転する。ぼくがこれまで長々書いてきたような「意味」を作者が意図していたかといえば間違いなくしていない。「意味」を生みだしたのは作者ではなく、読者であるぼく自身である。前回の記事で、アフォリズムは「結論」だけを提示するもの、小説は「過程」を提示するもの、と書きましたけども、本当は、優れた小説というのは「過程」すらも示さない。それを読んだ者のなかに眠っている「無意識」、いまだ言語化(「過程」化)されていない部分に働きかけるのが小説として価値の高いものであり、「無意識」をくすぐられた読者は、そこで初めて自分の「無意識」に名前を与えて言語としてそれを掘り起こす作業にとりかかる。「過程」から「結論」まで作り上げていく。「意識化」する。あるいはしない。表面的に読んでいるだけではまったく意味がわからない、あるいは無意味に見えるのに、「なんとなく」いい、そういう感覚を喚起させる小説を書くためには、作者もまた己の無意識を駆使せねばならない。言葉にした途端それは陳腐化するだろう。作品を通じての読者と作者の「無意識」の響きあい、それこそが小説に限らず芸術の、本来的な価値なんじゃないかという気がする。

「汚らしい真似はよせと言っただろうが!」
 意志の力を振り絞って振り向きざま猛烈な怒声を浴びせかけた。すると驚くべきことに、見えない平手に張られたかのように突然、頬を打つ音がして豊丸の頬が勢いよく真横に背けられた。一瞬、何が起こったのか誰一人として認識できなかったが、よくよく目を凝らせば単に体ごと向き直った栄治の、股間の隆々たる突起が立派な凶器と化して豊丸の頬をしたたか痛打しただけだった。

もうだめだw ということで今まで書いたこと全部忘れてくれてかまいません。結局真理なんてものは身体で学ぶしかないんだろう。や、またもっともらしいこと言ってるな。でもまあ、これだけはどうしても言っておきたい。木下古栗は、理屈ぬきに、もう、めちゃめちゃ面白い。YES

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