メタ体質VSメタ体質のもうドロドロ泥仕合

物事を一歩ひいた場所から眺め、批評することを「メタ」という。ドラマでいうと三十三分探偵とかがそれだね。メタフィクション。ドラマの尺が33分であることを主人公たちが自覚している、という設定だ。あるいは、シラけ笑いというのがあるけれど、あれはメタコミュニケーションというやつだろう。つまらない発言で場が静まりかえる、その状況を一瞬後に俯瞰して笑う、という現象がおきている。
ぼくは、この「メタ視点でモノを見る」ということが習慣として体に染みついた、いうなれば「メタ体質」な人間である。「醒めてる」ってやつか。そしてぼくは基本的にはこの「メタ視点」を良いものだと思っている。このブログのなかでも何度か「自覚的になれ」的なことを書いているけれど、それは要するにメタ的な視点を持てよとまあそういうことです。
で、この「メタ」、「客観」というものとどうちがうのか。ほぼ似たような意味だろう。というか、たぶん元々はほぼ同じだった。主(=当事者)としてではなく、客(=第三者)として観る。が、ぼくは「客観」という言葉があんまり好きじゃない。「客観的に見ると〜」という言葉を聞くとウヘエとげんなりする。
なぜ、げんなりするのか。たぶん、客観という言葉が、主観とは正反対のものを指す言葉として使われてる気がするからだろう。つまり「客観的に見ると〜」という発言をする人を見ていると、どうも、「自分は主観=偏見といったものを排除できてますよ」みたいな顔をしているのだ。すると、「客観的にみる」は「真実・本質を見抜く」という言葉と似た響きを持つ始める。しかし少し考えりゃわかることですが、真実・本質なんてほんとにあるのかわからないし(「ない」と言い切るのもまたアレですけど)、また主観を取り除くなんてことは不可能で、仮に客=第三者の気分になって観たところで、あくまで客も「人」であるからには偏見からは逃れられぬのだ。でもだからといって、「すべては主観なのだ」などと開き直るのもバカですから、どうするかというと、ここで「メタ」という言葉が登場する。
メタは、人を「行為する主=自分」と「観る主=自分」に分裂させる。「観る自分」を「客=第三者」に置き換えるのではなく、あくまで「主」として、その主観性を意識しながら「行為する自分」の背中を見るために後ずさりする。これが「自覚」という言葉となってあらわれたりもする、というわけだ。開き直り、とも言うかもしれない。つまり「メタ」は、絶えず「観る自分」、さらに「観る自分を観る自分」といったように無限に後退していく「観る自分たち」に、たえず自分の行動を監視され、統御されるような在り方のことを言う。とぼくは思っている。

ところが、他人までをもメタ視点で眺めると困ったことになるのですよ。メタ体質なものでぼくもよくやってしまうのですけど、そのひとの「行為」を純粋に評価するのではなく、その裏にある「意図・自意識」を読みとろうとする。たとえば「偽善」てすぐに言っちゃうあの感じですね。もっと広くとれば、「○○ぶってる」「○○なオレかっこいいと思ってんだろ?」「嫉妬すんなよ」とか言っちゃうあの感じである。

もうね、いい加減「偽善」ていう言葉使うのやめたらどうっすか。偽りの善、てことはホンモノの善があるんですか、と言いたいところをぐっとこらえまして、もっと嫌なのは、この言葉の使い方が2パターンに分かれているところなんですよ。その二つとは、以下の通りです。
①行為する本人が「善いことだ」と思っているだけで、実際には「無駄」あるいは「迷惑」ですらある場合。「おれって善い奴☆」という自意識に内容が伴っていないことを指す。
②行為の内容は確かに「善いこと」だが、その横に「こんなことしてるアタシって素敵☆」という臭いのキツい自意識が付随している。「自意識を満足させるため」という動機から発生した「善い行い」を指す。

チリで地震が起こったときに千羽鶴を送った人たちがいたそうですが、これは明らかに①ですよね。だったら食糧おくれよってぼこぼこに叩かれてましたけどもっともなことだと思う。②はちょっと例が浮かばないんで申し訳ないんですけども、たとえば「やらぬ善よりやる偽善」という言葉における「偽善」は②を指しているのだろう。つまり、動機・意図がどうであれ、その行為自体が人の役に立っているならええやんけ、とこういうことだ。

①②は行為自体が善か否か、という点でかなり大きな違いがあるのだが、すべて「偽善」のひとことでくくられている。要するに行為の内容は吟味されずに、その自意識だけが問題とされているわけだ。なんでこんなことが起きているのかといえば、たぶん、「善」というものが「善き意図+善き行為」のセットとして捉えられているからなのだろう。どちらか一方が欠けた時点で、それはもう「善」ではない、「偽りの善」である、というわけだ。いや、というより「善き意図+迷惑行為」が偽善と捉えられるのを見たことがないから、どちらかといえば「善き意図」の方によりウェイトが置かれている感すらある。だから、自己陶酔の臭いをかぎ取られれば、ただちにそれは「偽善」に転落する。

こうなっちゃったらもうだめです。偽善という言葉を殺すしかない。偽善というものが取り上げられるとき、だいたい「イイ人ぶっちゃってキモチワルw」と「やらぬ善よりやる偽善!」の戦いとなるけど、そもそも捉え方の次元が違うんだよね。あはは。ばかだねえー

いま、たまたま「偽善」という言葉をやり玉にあげましたけど、「○○ぶってる」とかいうような、相手の心理を見透かすような言葉全般が結構あやういものだと思う。
人気の漫画・音楽を否定すれば「人気のモノを否定する自分かっこいいと思ってんだろ」「才能に嫉妬すんなよ」とこう来る。それに対する反応として、「悪口書いてる奴の本質見抜いてるオレかっこいいと思ってんだろw」というのがある。もうここまで来るとキリがありません。相手の背後をとる終わりなき戦いが開始する。そりゃ発言する限りなんらかの自意識は伴うだろうよ。こんな記事書いちゃってお前、「偽善」という言葉の本質見抜いてるオレかっこいいと思ってんだろwていわれればまあそうですしね。と、このように書くぼくは、「書く自分の自意識まで書いちゃってオレって正直☆」って思ってますしね。エンドレスなんでやめますけどね。

後退はどこかでやめなければなりません。メタ視点を自分に適用する場合でも、「観る自分」ばかりが権力を持ってしまうと行動できなくなる。まさに今のぼくの状態なんすけどね。かといって前進ばっかしてんのもキモチワルイ。では、どうするべきなのか。知りません(笑) 三歩すすんで二歩下がる、という言葉があって、これが正解なのかもしれませんけれど、「よし、三歩進んで二歩下がるように生活すればいいんだな」って考えたところで、で、それってどうやるのって話になりますからね。

ちなみに、こうやって何かを論じること自体を「上から目線」「偉そう」と拒絶するバカがいますが、これは、ひとをメタから引きずり下ろそうとする態度ですね。俯瞰してないで、同一地平線上にいろ! 一歩下がってねえで、前のめりに進め!とこう言っている。「偉そう=自分は偉いと思ってんだろ」と言ってる時点でそれもメタ視点で「上から」「偉そう」にしてるんですけどねえ。「語る自分」という自意識をどうにか制御しないと、確かに「偉そう」な独特の臭気は発生するんで、この言葉自体を否定する気もあんまないんですけど、でも、そういう自意識の存在まで意識して論じてるんならそれは「偉そう」じゃなくて「偉い」んだよ。少なくともお前よりはな。ははは あーぐだぐだだ