大学ぼっちよ、君は「孤高」でも「ダメ人間」でもない

大学の先輩と食事したときに、そのひとは、人間に欠点などない、といった。ぼくの直感だと、最近、世の中はどんどん相対主義の考え方をとるようになってきていて、この発言もその一貫なんだろうとおもう。ぼくはこういった格言めいた言葉自体がきらいなのだけれど、それは一旦おいといてもこの発言はちょっと極端だろうとはおもう。
が、言いたいことは非常によくわかる。もしもその先輩が欠点だらけだったら今こんな調子で記事を書いていないだろうけれど、実際、その先輩、すげえーイイ人なのである。少なくともそう見える。要するに、話も面白くて、後輩に対する気配りも非常によく、差別しないし、気分にムラもないし、だからといって媚びている、ムリしているなどということもない。自然体である。ぜんぜんタイプのちがう無気力で自分勝手なおれみたいな奴も、ベタな言葉でいえば「個性」として扱ってくれているかんじがするのである。「人間に欠点などない」というアフォリズムを、ちゃんと体で表現している。

しかもその先輩のみじゃなく、サークル全体でそういうひとたちがうじゃうじゃいる。

若干コワいのだ、これが。間違ってもそれは「ウラではどうだかわからない」というような恐怖じゃない。演技してる、仮面をかぶってる、偽善的、ぬるま湯的馴れ合い、などなど、綿矢りさが「蹴りたい背中」で書いたような、友達が出来ないタイプの人間が友達の多い人間に向かって吐き出す紋切り型の呪詛は、ここでは通用しない。自分の欠点をも「キャラクター」として扱ってもらう、そのことによって一層そこに馴染めない自分を自覚させられる、という事態がここであらわれる。楽なんですよね、呪詛していたほうが。本当は。仮想敵を作ることで自分のスタンスを固定できるからね。自分の想定した敵がどこにもいない、と気付くとき、ぼく(たち)は、ついに自己嫌悪から逃げられなくなる。

しかし、ぼくをひとつの「個性」と認めてくれている彼らも、もし企業の人事部の人間だったら、間違いなくぼくを採用しないだろう。それはぼくが「悪」だからではなく、「必要ない」からだ。このことをどう捉えればいいのか。

要するに、「善・悪」はないけれど、「損・得」は、確実にあるのである。内向的なのは「悪」ではないが「損」だろう。運動音痴なのは「悪」ではないが「損」だろう。勉強できないのは「悪」ではないが「損」だろう。

ネットでは「ぼっち」といわれる人たちがうじゃうじゃ湧いていて、日々「非ぼっち」との戦いを繰り広げている。ぼっちは非ぼっちの没個性を笑い、非ぼっちはぼっちの、コミュニケーションに対する努力不足を笑う。相対主義と絶対主義の終わりなき戦いだね。
損・得という言葉は、性格に関してあまり使われない言葉な気がするけれど、絶対主義にも相対主義にも傾きすぎないという意味で、けっこう有用なんじゃないかとおもう。「損」側が開きなおることも、「得」側が「損」を自分勝手に糾弾することもなくなる、あるいは、少なくともそういう状況にはなりづらいんじゃないか。それでいくぶんか「寛容」のレベルも上がるだろう。

まあ、かくいう僕もぼっちでした。ぼっち、といってもたぶん軽度のぼっち。べつにしゃべる奴は結構いた。が、つまらないのである。ぜんぜん面白くない。つーか、話題の波長、というか、感性のツボがあわなくてなんかギクシャクするのである。あー、、つまんね、と思って、適当な話題を考えるのも面倒になって、それは僕が悪いのでも相手が悪いのでもないのだけれど、黙ってたほうが楽じゃん、となってしまった。おまけに中高一貫校にいたから一からの友達づくりは久々で、つまらない会話を持続させてまで輪の中に入ろう、という気概がなかった。まーそのうち出来るっしょ、みたいな。その気概のなさは、何度でも言うがべつに馴れ合いの拒絶という「孤高」のものでもないし、「努力不足」などといって糾弾されるようなものでもない。単に「めんどくさかった」、それだけであり、それ以上の何をも意味しない。

高校までふつうに友達がいたのに、大学に入ったら孤独になった、そういう人は意外と多いんじゃないか。だいいち、大学は自由で楽しいところ、という言説があまりに浸透しすぎて、「楽しくなければならない」という強迫的な意味合いすら込められてきているように思う。コミュ力、というキチンと定義されていない言葉もその一端を担っているだろう。ここには、「人生楽しまなきゃ損」という言葉にあるような、やたらポジティブで元気な人間たちの(「損」な人たちへの)無自覚な追い打ちを感じる。

ぼっちを経験して気付いたけれど、大学と高校は、友達の作り方が根本的に違う。特に私立大学で人が多いとね。「個」と「個」の関係から入っていくのが高校だ。席が隣になった、班が同じ、みたいなところから「個」同士の関係を開始して、深まり、というのを複数回繰り返してやがて連鎖的に集団を形成していく(あるいはしない)。部活でも基本的にこういう形だったように思う。が、大学は、まず集団として関係が開始する。おもに飲み会を通して、複数の「個」と同時並行的に、網羅的に深まっていくことが求められる。ぼくの場合ゼミとサークルがそんな感じなのだけれど、特徴は、仲良しグループが出来ないことだ。一部(ぼっち)を除きみんな平等に仲良しである。飲み会では一か所にとどまらず、みんな移動するからその都度さまざまなグループが生まれるが、決して固定されない。連鎖的関係形成の仕方しか知らない、あるいは出来ない、一対一の安定的な関係を望む「損」な人は、早くもここで締め出されるだろう。で、外から眺めて、「あいつらの関係は薄っぺらい、うわべだけだ、馴れ合いだ」という。事実その通りである。が、そうしているうちに自分を締め出したまま「集団」は「集団」として関係がどんどん深まっていく。初期の「薄っぺらさ」はいつの間にかなくなる。仮想敵の喪失。周囲からは「暗い人」との烙印を押され、その役割を演じざるを得なくなる。自己嫌悪と仮想敵創出のスパイラルがここで開始する。ゲームオーバー、である。

ぼくは、たまたま笑いをとることができるという「得」な性質をわりと昔からもっていたから、もう最近はその笑いを武器に集団に突っ込んでいく形で、なんとかなり始めている。笑い、つっても陽気な笑いではもちろんない。ネガティブ方面にベクトルの強い、自分も他人もすべてを茶化すブラックな笑いである。そういうのもう高校でやめようと思って大学では封印したのだけれど、結局、ぼくはもう根っからのネガティブ体質なのでした。カッコつけて斜に構えてたわけでも、クールぶってたわけでもなかった。ネガティブはもうネガティブなりに、もう元気よくネガティブ方面に突き進むしかない。会話なんて基本的には「存在の発信」でしかないのだから、発信したもんがちである。シニフィアンの投げ合いである。とりあえず大きめの声で、発言する。もう思考・感情垂れ流しですよ。それがわるいとも思わない、すくなくとも今は。疲れるけど。気の合う人とだけ、だらだら、互いに笑わせ合いながらしゃべってたいけど。