コミュニケーションについてのアレコレ

前回、「笑い」を意識するのをやめたいのでここに記事として書く、と宣言して、つれづれなるままに書いたらほんとにそれについて考えなくなった。すげえすげえ。まあ正確には「まったく頭から抜け落ちた」わけじゃなくって相変わらず「面白い」ということにこだわっちゃったりしているのだが、ヘンに「おれは笑いのセンスあるんだ」って自意識過剰に力むことはなくなったようにおもう。これは無条件にいいことだね。単に元に戻っただけかもしれないけど。
でも固定して吐き出すから、自分の思考が明確になる、そして場合によっちゃ思考が足踏みをやめてもう一歩前にすすむ、ということは確実にあるのだ。言葉の力ってほんとうはこういうところにあるんじゃないか。ぼく、言葉の力、という言葉むかしっから嫌いなんですけどねー。言葉の伝達機能的側面を無邪気に信じてるかんじがするからだ。結局、言葉はまず他人のためじゃなくって自分のためにあるんじゃないかとおもうのだけど、実際のところどうなんですかね。それがヲナニーブログを自称する所以でもあるし。ぜんぜん更新してないけど。まあどうでもいいか。

今回何について書こうかというと、まあ特に体系的に書くこともないので、コミュニケーションということについてとりとめもなく書いていこうとおもいます。

会話、雑談の目標は何か、と言えば、たぶん「笑い」だろう。「他人の価値観を知る/勉強する」とか言っちゃう奴もいるけど、あんな即興性と簡潔さが求められるコミュニケーションスタイルに何を求めてるわけ?wと鼻で笑いたい。そんな「深い」ことが知りたいんだったら本読めよ。よっぽど「勉強」になるぞ。だからそうじゃなくて、会話は、まあこう表現するとどうしても大袈裟だが、結局のところこちらの言葉に対して相手がどう反応するか、どういう言葉を返すかというところに互いの「個」(社会化されきらない部分)が現れるのがだいご味なんじゃないかとおもう。「個」が立ちあがると俄然面白く、濃くなってくる。「笑い」が自然に発生する。
「笑い」を意図的に産もうとすることは難しい。謙遜する気全くないのだけど、ぼくは結構むかしから集団のなかで笑いをとることは多くて、「お前面白いな」というのだって大学に入ってから急に言われはじめたわけじゃなく小学生時代から何度か耳にしてはいたのだが、思い返してみるとほとんど気にも留めずに聞き流していた(あえて聞かないようにすらしていた?)し「笑いをとろう」と考えたことも一度もなかった。それは要するにその会話のなかで自分が面白いと思ったことを面白いと思ったように吐き出していただけ、要するに無意識に「場の空気」に従って笑わせていただけで、(プロの芸人は知らないが)世の「おもしろい人」もだいたいがそうなんじゃないか、とおもう。「笑いをとりたい」というよりは「面白いことを言いたい」のである。笑いが起きる、というのはあくまで二次的な要素でしかなかった。

しかし、日常的に「笑い」の存在を意識するようになって気がついたのだが、意識的に笑わせようとしてるひとって多いんすね。「面白いことを言いたい」人ではなく「笑いをとりたい」人、つまり完全にベクトルが外に向いてる人である。で、大抵つまんない。一応もう一回言っとくけど全然おもしろくない。まじで。やめてくれ。盛り上げようという善意から来るものなんだろうけど、はっきり言っちゃえば「盛り上げよう」という意識がもう既に間違ってると思うのだ。何がテンションぶちあげていこうぜだよバカが。お前の発言で一回も笑った事ねえよ。このへんがぼくと世間との大きなズレの原因かもしれないのだが、ぼくがいままで誰かと会話していて楽しかったときの実感として、波長があえば「勝手に盛り上がる」のだ。だから、おもしろい会話ができているとき、誰かひとりだけが面白いなんていうことは本当はないのである。サッカーのことよく知らないのに勝手に例えちゃうけど、別にあれってシュート決めたやつだけが上手なわけじゃあないんだろ。それと一緒だ。別に笑いとった奴だけが面白いわけじゃない。というか、言い方かえればある程度面白い(とぼくが思う人、つまり波長が合う)人が相手じゃないと笑いがとれない。なんでもないような会話におけるぼくの返しの下手さなんて異常です。平均以下なんじゃないか。ぶっちゃけ言えば「ふうん」「へえ」「なるほどお」で全部終わらせられる自信があるからね。やらないけど。

まあ、ぼくの尋常じゃない聞きベタ具合はこれから生きていく上で結構シャレになんねえなと思っていて、だって楽しくしゃべれるのが愚痴と自虐と下ネタとメタコミュニケーション(コミュニケーションそのものに自己言及すること。その場の空気の状態をあえて言語化するとか、会話におけるあるあるネタとか)ばっかりですからね、これはまずいです。でも「盛り上げよう」派の奴ら、まあ俗にいうリア充とかぶるが、「あからさまなボケ→(ツッコミ)→周囲の笑い」というあのパターンはもういい加減やめてくれ。おいてけぼり食らうおれが悪いんか。周りの奴ら、ゼッタイ面白いとおもってねえだろ。「笑って」という無言の要請に従って笑ってあげてるだけ。アハハハハ、とか、ふつーそんな活字にできる笑い方しねえから。「笑わせている」「笑われている」の二分論なんてもう古い。お前らは「笑ってもらってる」んだよ。あのカンジでどんどんおれがネクラのレッテルを張られるパターンも多い気がする。少なくとも印象は悪いだろう。

ぼくは、でも、盛り上がらないならそれはそれでしょうがないと思っている。別にバラエティ番組を作っているわけじゃない。集団が本当に面白そうに笑ってるのに自分的にぜんっぜん面白くない、という場合、まあ結構これ精神的にキツイが、あきらめましょう。自分が真におもしろいと思って言ったのにヘンな顔されるケースもあきらめるしかない。波長、要するにどこに刺激を感じるかというポイント(笑いのツボとか怒りのツボとか)なんて変えようがないし、変える必要もないのだ。多数派に合わせる必要もない。もし、自分にとってどうしようもなく肌に合わない環境に入り込んでしまってどうしようもなくなったときは、もう環境のせいにして開き直ったほうがいいのである。みなさん大嫌いな「人のせい」「環境のせい」だ。「自己責任」「権利を主張する前に義務を果たせ」「人を変えたければまず自分が変われ」と言いたがりなバカがここぞとばかりに怒りだすだろうねw 自分がした選択した行為に対する結果なんて究極的には自分が負う、追わざるをえないのになんで赤の他人のてめえらが「自己責任」とかほざいてしたり顔なんだよ。社会のせい、なんて言われたら社会の一員である自分も責められた気になって不安なの? 津波の犠牲者すら自己責任とかいってる奴いるんだぞ。頭おかしいのか。話だいぶ逸れたけど。
落ち込んだりへこんだりしたら、「人のせいにする」ことで平穏を保つという選択肢はそんなに悪くないんじゃないか。落ち込んだ時点でもう自分の悪い部分は(過剰なほどに)見えまくっているのだ。あとは「おれは別に悪くない、あいつらが悪い」と開き直るのみ、である。ほんとは別に誰が決定的に悪いわけでもないのだが、むこうは多数派として数の力で圧倒してくるのだから、心のうちで連中を悪に仕立てて堂々とするのは方法としてアリでしょう。その上でコミュニティの法則に譲歩できるとこはすればいい。ひとが変わりうるのは、最初からその要素が内部にあって、隠れていたものが表面化するぐらいしかない、とぼくなんかはおもうのですが。
本当に努力すべきは環境選択のほうだろ。環境適合をやたらオススメしてくるけどね。連中は。世間の言葉の集合体は。