分裂は笑いを生む

 なんか、大学で「お前おもしろいな」と頻繁にいわれつづけて、同じような状況にあるらしい高校の友達と「おれらってどうも笑いのセンス高いらしいぜ」的なイタい(でも気持ちよくてやめられない)会話を続けるうち、なんかかなり笑いに対して自意識過剰になっている自分がいます。しかも結果スベることも増えた、気がする。やばいやばい。
 最近この「笑いとは何か」「面白さとは何か」とかいうことを中心にモノを考えるようになってきていて、結果「お、このくだりおれウマいこと言えそうだぞ」という自意識が、皮肉にも「面白い発想・フレーズ」が脳から降りてくるのを阻害する。プロの芸人がこの自意識をどう処理しているのか気になるところだけれど、別にぼくは芸人でもないしそれになる気もないから、いい加減笑いのことを考えるのをやめたい、ので、ここに書く。言語の形に固定して、吐き出すと、それについて延々考え続けるぼくの悪いくせがなくなるので。木下古栗についても記事にしたらあんまり考えなくなったな。いや今でも一番好きな作家ですけど。

 

 文学について、ぼくは最近考えることがなくなって、それが「笑い」にとってかわるようになったんだけれど、ぼくにとって両者はそれほどかけ離れたものではない。というか、文学はほんとにさまざまな(というか多分無限の)表現の可能性を内包しているように思うのだけれど、ぼくがとりわけ好きだった領域(中原昌也とか、前田司郎、木下古栗など)、つまり内容(WHAT)ではなく方法(HOW)にこだわる表現の仕方が、笑いをとる、ということと非常に近接しているのである。
 笑いをとるという行為は、「いかに表現するか」という問題を厳密に要求する。
 それは単に自分の生んだ(発見した)「面白いこと」をどんな言い回しでアウトプットするかが重要になるというだけでなく、間や声のトーン、表情によってまるで笑いの度合いがかわってくる、という意味において、だ。文学はある意味非常に作者本位な表現手段であるから、どんな題材をどのように料理しようが、自由だ。そこに理解のあるもの、無意識のうちでそれを「面白い」と思った者だけが作者の後についていけばいいが、笑いは、当然だが相手を笑わせる(大袈裟にいえばこちらの脳フィルターを通して見た「世界」に相手をひきずりこむ)行為だから、相手をリードしながらも、彼に歩調をあわせるような作業が必要となるのだ。
 もちろん会話のなかで即興的に笑いを生み出すとき、ふつう聞き手の理解に歩調を合わせるという意識はなくて自然にそれをやっているものなのだけれど、その発想やフレーズがまだ脳内の片隅に残っていて、また違う時違う誰かとしゃべっているときに、あ、こないだのあのくだり応用できるぞ、となる場合、この「歩調をあわせる」という作業を意識する必要が出てくる。つまりアドリブでひとを笑わせるときには、笑わせる自分もまたどこに行きつくかが見えていない状態だから、一歩ずつ、それこそ相手の反応から適宜進行方向を決めていくしかないのだが、以前やったくだりを違う会話に応用するときには、いわば笑わせる自分にはもう行きつく先が見えている。
 このとき、だいたい二つの間違いが起こる。
 ひとつは、焦って、行きつくまでの過程を無視して到着地点にジャンプしてしまう。もちろん相手はおいてけぼりを食らい、戸惑う。笑わすどころか戸惑わせちゃうのである。スベッたってやつですね。んで、もうひとつが、誘導が下手、要するに相手の反応から自然に目標地点へ導くことができていない。相手は笑うには笑うが、アドリブ時の爆発力はない。これはまあある意味必然で仕方がないことなのだけれど、自分には到着地が見えているからどうしても「ウケ狙い」感が出ちゃうのであるね。
 笑いに走る時、このウケ狙い感(用意していた感)はほんとにクセモノで、聞き手はこの臭いをかぎとった途端に話の内容に集中できなくなり、結果笑わなくなる(正確には愛想笑いっぽくなる)。同じ理由で文章による笑いも、間やトーンといった要素が欠けていることもあるが、それは「用意されたもの」でしかありえないから、格段に難易度が高くなる。メールでウケ狙いなんて言語道断です。だから決めのフレーズの前にちょっとわざとごにょごにょっと口ごもると、聞き手の期待感が高まるしアドリブ感もでるから、逆によかったりする。期待感を高める、というのは「ちょっと待ってください」「大先輩ですけどすいません」と一旦空気を止めてからツッコミを入れる、みたいなのと同じだ。雨上がり決死隊の宮迫がよくやるやつ。

 
 つかこの文章つまんねw これ読んだところで面白くなかった奴が面白くなるなんてありえないからね。仮にあるなら「笑いにウルサイつまんない奴」が誕生するだけです。まあいいや。続けます。次。

 
 人はどういうときに笑うのか。もちろん笑うためにはどういう言葉が選ばれるかというワードセンスが一番重要なのだけれど、表現内容の面からいうと、一般的には「緊張と緩和」だとか「期待と裏切り」といわれている。まあこれは、たぶん正しい。けれど、より大きくいってぼくは、「通常想定される『流れ』からの逸脱」だと考えている。流れ、はまあ要するに社会通念やら常識やらベタやら、要するに「ありきたりなもの」、「こう来たら→こう」というステレオタイプ、ぼくが以前必死こいて説明してきた「物語」というやつとも合致する。と、こう考えるとまたぼくの好きな文学作品の傾向との共通点が見えてくるのだけれど、つまり「笑い」は、「流れ」から逸脱することで「流れ」を可視化し、破壊/強化する作用であるということができる。
 たとえば、大喜利No.1を決める一本グランプリを見ていて思ったのだけれど、笑いの基礎となるものは、やはり「あるあるネタ」である。「あるあるネタ」は、ふだん我々が何気なく見過ごしている事柄を、言語化する。確かに視界に入っていたのに、うまく言語化されていなかったものを意識の俎上にひっぱりだす。大喜利では、この「あるある」あるいはステレオタイプなセリフ・会話を、いかに強引に、かつ華麗にお題に結び付け、異物として提出するかが問われることとなる。結びつけられる事柄が離れているように見えれば見えるほど、笑いは大きくなるだろう(感傷的なセリフと下ネタ、など)。これは中原昌也が「私のパソコンタイムズ顛末記」で行ったことと非常に似ていて、まあ彼のようにその言説の形骸化を皮肉って破壊する、とまでの意思は多分、というか絶対彼ら芸人は持っていないが、それでも異種のものを組み合わせるという「創造」が行われていることは、共通する。
 「流れ」からの逸脱、「流れ」への回帰、というこの反復が笑いを生むのはまあまず間違いなさそうなのだが、結果として笑いは、この「流れ」を強化することとなったり、反対に破壊することとなったりもする。
 強化する笑いの例としてはまずダチョウ倶楽部があげられるか。あれはちょっと特殊な「流れ」を独自に作り上げた感が強いので、最初見たときは実はそんなに面白くない。見知らぬ「流れ」だし、かといってそこまで日常から逸脱しているわけでもなく中途半端だ。が、あの「流れ」をいったん見る側が把握すると、「お、くるぞくるぞ」「やっぱり来た」という安心感・空気の共感から笑う。「こんなのおいしいわけが……パクッ、う、うまい!!」というこのベタなギャグも同じ構造を持っている。
 漫才も、ツッコミが目立たないタイプのコンビはこの要素が強い。ボケが「逸脱」、ツッコミが「回帰」の役をになうことになるのだが、この場合流れ=一般的感性の方が強大であるから、どうしてもボケはわざとらしくなる。不自然で、ウケ狙い感が強くなる。一方でツッコミは「流れ」の体現者として在るわけだから、個性がない。徹底して「一般人」である。ここでは「ボケ」は単なる逸脱した「ヘンなもの」であり、「まともである」ツッコミを聞くことで聞き手は「流れ」の側にとどまっていることを確認し、笑い、そこにとどまり続ける。内的な世界は揺らがない。
 一方で、破壊する笑いは、ときに(「流れ」の外に在るという意味での)ボケが、「流れ」に対するツッコミであったりする。つまり、「流れ=正しい」「逸脱=ヘンなもの」という構図が崩れ、等号がひき剥がされる。(正しい)ツッコミと(おかしな)ボケという明確な区分がなされないのだ。ビートたけしは「笑いの根源は差別だ」といった発言をしたらしいけれど、正確には「笑いとは攻撃である」ということだとおもう。攻撃の対象が「流れからはみ出した者」であるとき、「流れ」のなかに在る者(多数派)がはみ出し者(少数派)を笑うとき、それは「差別」となる。が、攻撃対象が「流れ」そのものとなるとき、その攻撃が正当(にみえる)ものであれば聞き手は、「流れ」の正当性が絶対化されていた内的世界が揺らぎ、相対化が起こり、笑う。あるいは「流れ」に囚われる自分の滑稽さを浮き彫りにする自虐的な笑いによっても、「流れ」が内側から突き崩されるようにして、揺らぎは起こるだろう。
 いまのところこれが一番顕著なのがブラマヨの吉田かなあ、と思う。
 ブラマヨ吉田は攻撃的でかつ自虐的である。バラエティでよくネタにされる「ケチ」で「女好き」で「卑屈」で「小心者」なブラマヨ吉田の姿は、もちろんテレビ用のネタであると同時に、おそらく彼自身の「本音」である。だから強化するタイプの笑いと違って、ウケ狙いの臭みがない(吉田自身も意識して笑いをとるとき「真顔」である)。強化する笑いの場合、笑わせる人間は単に「逸脱したもの」を演じているだけであり、本心は「流れ」の側にあるが、破壊する笑いはほとんど「本音」だ。しかし、ただ単純に本音をいって周囲で笑いがおきるだけなら、これは「笑わせる」ではなく「笑われている」ことになるだろう。実際両者はまあ紙一重でもあったりするのだが、破壊的な笑いを提供する人間はその「本音」が「流れ」から逸脱していることを、強烈に自覚している。
 これは笑わせる人間が日常や人間関係のなかにある「流れ」を強烈に意識していないとできない所業で、ここでは彼は、「流れから逸脱する自分」と「流れの中にいる自分」に分裂している。この内部分裂状態が笑いを生む。「流れ」を自覚している人間は、そこからかすかに逸脱した(しかしほおっておけば見過ごされるような)行為に的確にツッコむことによっても、「流れ」に囚われる自分を披露することによっても、「流れ」の矛盾を指摘することによっても笑いを生むだろう。

 ていうね。流れ、流れと連呼しましたが「空気」とも非常に近い意味かも。笑いは攻撃である、というのは結構以前から感じていたことで、笑いが起きて盛り上がる場ってはたから見ると結構いやーな感じがするんだよね。笑う、という行為自体は楽しくて華やかだから勘違いしがちなのだけれど、笑い話というのはその源となった経験はだいたいネガティブだ。自分が楽しかった話を楽しそうに話せば聞き手も楽しいと思い込むひとがたまにいるのだけれど、まあこれは端的にいって誤りで、楽しくなかった、不快だった経験のほうが話そのものは楽しくなる。
 何かを食べにいって、それがおいしかった。「どこどこの店でラーメン食べたんだけど、おいしかった」ふーーーん、である。じゃあ今度食べに行ってみるか、くらいにはなるし、別にそういう話をするなということは全くもってないのだけれど、話が盛り上がるのは、絶対に「おいしくなかった場合」だ。「腐ったバナナみたいなにおいだった」「湿ったトイレットペーパー食ってるみたいだった」といったマズさの表現から、期待との落差、食べた直後の反応、まで、話が盛り上がる要素がたくさんでてくる。
 自己啓発本的なあれを見ると、「暗いネガティブな話を聞きたい人はいません。明るく前向きな話をしましょう」的なアドバイスがあったりするんですけど、あれはまあ、アホですね。トーンが暗いのは(原則)ダメだが、明るい口調での愚痴や自虐はうける。まあ限度ありますけど。

 

 と書いていて悲しくなるのはぼく、基本的に集団になじめない人間なんですよねー。だいたいの確率で浮く。「面白い」とか言われつつ結局大学でも浮いてる。まあみんなと仲良くやれる人間はこんなブログ書かないか。しかしながら、ここからはほんとにただの愚痴になるのだが、例外をのぞけば大学のみんなとのコミュニケーションがぜんぜん楽しく感じられない。つまり笑えない。笑わない、楽しい会話もあるのかもしれないがぼくは基本的に「楽しい」と感じる感性が欠如している人間で、つまり相手を笑わせ、相手に笑わせられないとなんか刺激が足りなくて退屈なのである。
 というのもみんななんか「いい人」なのだ。ふざけるしバカなこともやるが逸脱しない。飲み会とか、ハメをはずすべきときにちゃんとはずしてるのを見てるとマジメなんだなあと思うのだが、将来とか社会とか「深い」話をするときには急に、なんかあからさまに「マジメ」なのだ。よくいえばメリハリがきくということなのだろうけれど、ぼくはどうしてもそのメリハリ感が嫌いで、以前の記事でも「普段はバカやってるけど実は知的なワタシ☆」というフレーズで揶揄させていただきました。なんであんなにON・OFFはっきりさせたがるのかね。いくら盛り上がるべき、笑うべき場でもツマランものはツマランし、だいたいあんな分断されたコミュ二ケーションが要求される「飲み会」なんて場で本来の笑いなんて生まれるわけがない。文脈を積み上げてこそ笑いは発生するんじゃないのか、こいつらホントに面白いと思ってんのか? とまあ常々思っていて、でいざぼくがしゃべれるときに、しゃべりたいことを、しゃべりたいようにしゃべったら、こっちが若干引くぐらい笑ってる。いやまじかよ。しかも「あんときの話面白かったよ」とか未だ引きずってたりするし。それを他の奴の前でもしゃべらそうとするし。下手か。コミュニケーション下手なのはお前らなのか、おれなのか。つってね。
 はいだんだん性格悪い感じになってきましたー。が、続けるが、「面白い」とおれを褒めてくれるのはうれしいのだけど、何故その「面白い」おれの話にもっとのってこないのか。笑うばっかじゃなく笑わせてくれ。別にそんなに沸点高いつもりもない。
 大学入ったばかりでほんとに場になじめなかったとき、ぼくはなんで自分がここまで話に参加しない(できない)のか不思議で仕方なかった。見た目が暗い&人見知りという要素もだいぶデカかったと思うけれど、それにしてもひどすぎないか。いままで口下手な人間として生きてきたつもりもないのになんで? で、まあ、結論として、みんなの話す話の中身が面白いと感じられなかったからなのでした。ぼくはこの一年でだいぶ自分の「聴く力」とやらのなさを実感していて、つまり興味のない話、ささいなきっかけを種に話を膨らますことができない。なんの言葉も降ってこない。これは致命傷で、まあ、ぶっちゃけ今もなおっていないのですがw


 うわー。いいのかこんなこと書いちゃって。だいぶイタいぞ。まあいいか。例外もいます。もちろん。一般論でした。