運命論とメタフィクション(古谷実「ヒミズ」)

えー今回は前回に紹介した恋空のラストシーン、ガッキー自殺未遂→ハト登場→ノートがめくれ→自殺止めるという実に白々しい場面をカギに物語という表現形式がはらむウソ臭さというか限界みたいなのについて、こないだよりかは丁寧に、細かく書いてやろうかなと思う次第なわけですが、これ、結構説明すんのむずいかもしれません。

まず、物語とは何か。というと、まあ、一番べたなかんじでいえば、「ある人物がいて、そいつの周りでなんかしらの出来事が発生してから終結するまでの一連の流れを、作者が順序立てて語ったもの」と定義できそうですよね。で、これは以前「自己啓発本て(笑)」の記事でも書いたことですがそういった「物語」をわざわざ書き起こすからには、なんらかの動機が普通は必要になってくる。たとえば、「人生は不条理で冷酷だ」というメッセージを送るために、作者はあらかじめ「Aという人物が作家になるという小さいころからの夢を叶えるためにがむしゃらに努力するが、新人賞をとった翌日に交通事故で即死する」というストーリーラインをまず考え、それに添って小説を書き進めていくわけです。

で、このストーリーが淡々と描写され、あとは読者の解釈にゆだねるという形で提示されればまだいいのですけど、作者の意図が(安直なメタファーの使用などによって)あまりにも露骨に全面に押し出され、作品内のモノ・人物が思想伝達の道具にすぎないという印象が強まれば強まるほど、物語はどんどん運命論の様相を帯びてくることになる。ここでいう運命論とは何かというと、まあ要するに、世界のあらゆる出来事は創造主=神の意志によって決定されており、そこに個々人の意志が介在する余地はない、というもの。

すると、あら不思議! 世界を作品世界、神を作者、意思をメッセージ、個々人を登場人物に読み替えてみたら、もう、物語の構造と運命論、そっくりじゃんけ! とまあそんな感じになるわけです。たとえば先の恋空において、ハトを飛ばしたのは誰なのか? それは「ガッキーが自殺しようとしてやめる」という設定を予め決めていた作者にほかならないし、ノートをぺらぺらめくって親子三人が手をつなぐ下手くそな絵をガッキーに見せたのも、作品世界の神=作者による必然である、というわけです。古代人が雷を見て「神様がお怒りじゃー!」と騒いでいるのと同じくらいシンプルで幼稚な世界観がその根底には眠っているわけですね。しかもその表現方法/世界観の幼稚さに作者が無自覚ときている(笑)

このシーンが放つ圧倒的な臭気は、ここにあるとぼくは考えるわけです。運命論はそれが真実か否かはさておいて物凄く生きる気力を削ぐ世界観で、だから、ふつう、嫌われます。すべてはもう決定されている。その「運命」とやらがとろけそうに甘ったるい方に転がれば「運命の恋」ということになるが、ネガティブに捕らえられればそれは努力・夢・希望といったものを全否定する方向に転がるわけです。で、その運命論をネガティブ側から(恋空とは違って自覚的に)語るのが古谷実ヒミズ」という漫画なのでした。

日本全国で病気や事故など
あらゆる理由で一日平均2500名の尊い命がなくなっている・・・・・
と言われ
自分が死ぬと思うか?
「まぁ大丈夫だろ」「まぁ自分じゃないだろう」
健康にめぐまれている人ならきっとそう思うはずだ
自分の飛行機が落ちると思うか?
歩道を歩いていたら居眠りトラックがつっこんで来ると思うか?
家が放火されると思うか?
通り魔にあうと思うか?
肺にキノコが生えると思うか?
不幸ばかりじゃない 幸福もそうだ
宝くじが当たると思うか?
森で3億円拾うと思うか?
自分にとてつもない才能があると思うか?
それらは単に運のよしあしではなく
この世をつかさどる何かによって選ばれたもの
そう
「特別な人間」だ
そんな奴はめったにいない
ほとんどの人間は超極端な幸不幸にあうことなく一生を終える・・・「普通の人間」


主人公・住田はドラマチックな展開に満ちた、まるで物語のような人生が「在る」ことは認めていても、自分の人生がそれであるとは考えていないし、望んでもいない。彼が希望するのは誰にも迷惑をかけず平凡に生きることであり、何か大きなことをなしとげようとする周囲の人間をことごとく(彼らが神に選ばれた「特別な存在」なはずがないと思い込み)軽蔑する。この彼の態度をさっきから書いている「物語/運命論」の話に当てはめてみると、彼はこの世を環境や才能といった絶対的要素によって決定されるという「運命論=意思決定論」として捉えており、そして自分はそんな物語の主人公(=特別な存在)には絶対ならず、物語世界の端っこ、決して中心に描かれることのないその他大勢のモブとして生きていく存在として捉えようとしている。彼の「物語=運命」への態度はとても曖昧というか複雑で、「物語=運命」である世界を憎んではいるが、その強大さもまた十分に知っているから、幸福な物語を望まないかわりに、ただひたすら自分が運命という名の怪物に睨まれないこと、「悲惨な物語」の中心人物に祭り上げられないことを祈ることしかしないのである。だが残念ながら彼は主人公なのだった。母親が失踪し、父親を自らの手で殺す。けっこうベタにアンハッピーな方向へ引きずられてゆく。だが彼は抵抗しない。なぜなら彼は「運命への抵抗」すらも運命=物語の一部、すでに定められたものとなることを悟っているからで、だから彼はただひたすら運命によって構成された世界を憎悪し、自分はまだ「普通」だ、「特別な存在=主人公」なんかではないとひたすら自分に言い聞かせ、それを祈るしかないのである(母親の失踪の時点で彼は実際、友人の茶沢さんに「まだギリギリ普通の範疇さ」と強がってみせている)。

だから、さっき住田のことを主人公と書いたが、この「ヒミズ」という作品をあくまでメタフィクションと捉えるなら真の主人公は作中で「抗いえないものの象徴」として描かれるひとつ目の怪物と捉えるべきなのかもしれない。この怪物からの目線で「ヒミズ」を読み返すと、この作品のほんとうの怖さ、救い難い暗さが見えてくる。漫画の一番はじめ、主人公の登場シーンは、怪物が彼を睨み、悲惨な物語の主人公に選んだ瞬間だったと捉えてみると、もうなんか、絶望的な気分になりますよね。

そして四巻の最後、彼が自殺する直前の怪物との会話(うる覚えです)。住田「どうしてもだめなのか?」怪物「決まってるんだ」パーン

物語によって/運命によって、もう既に「決まっている」。住田が己の人生の背後に物語の作者=古谷実を見るとき、その姿はぼく(たち)がふと「この世は仮想現実なんじゃないか」と疑うときの姿に似る。あるいはより具体的に、自分の生を恨み、自分に与えられた諸条件をにくむときの姿に似る。運や環境、才能といったものによって人生は救い難いほど大きく左右される。怪物ににらまれたからオレは貧乏な家に生まれ、受験も満足にできずその土地で一生すごすしかない。怪物ににらまれたからオレは不細工な顔に生まれ、一生異性に蔑まれながら生きていくしかない。そういう理不尽が、たぶんこの作品ではたぶん表現されているんでしょう。


と、ここでちょっと告白すると、この「ヒミズメタフィクション」という説はぼくオリジナルのものじゃなくて、ネットで読んでなるほど!と思ったものなのでした。はっときます。http://abecasio.s23.xrea.com/report/archive/w_repo_05_1/21.html
ヒミズを実際に読んで、このレポートを読んで、そのうえでこの記事を読んでくれればぼくの言いたかったことがわかってもらえる…かもね、くらいにおもってます。にゃーん