愚痴についての愚痴についての愚痴

おもに愚痴を書いてこうって趣旨のブログなものですから、たぶんこのブログを読んでその毒にやられて不愉快になるひともいるはずで、そういう方々に対しあらかじめ予防線を張っとこうってわけです。自意識過剰なものでして。たとえば先日のバトロワ批判もファンのひとが読んだら不快になるかも。べつにそこまで嫌いだったわけじゃないのに気付いたらほぼ全面否定みたいになってましたからね。でもあのバトロワ評を読んでもし不愉快になったんだったらただちにこのブログ読むの止めりゃいい話なんですよ、なんてことは言いません。というか、「○○が嫌いなら見なきゃいいじゃん!」「そんなに○○が嫌いなら来るなよ!」というティンカス思考回路を罵倒するのがこの記事の目的のひとつです。

まあ愚痴メインのブログったって個人的な事情をうだうだ報告する気はありませんけどもね。こないだAさんにこんなこと言われたし……。サイヤク……。どうしてそうやって平気でひとを傷つけるようなこと言うの?おれがなんかやった?みたいなね。もう絶交!みたいなね。極端すぎるか。個人的体験を書くにしてもそれはあくまでキッカケとして、そこから抽象的にウダウダこういう考え方のやつはUZEEEみたいなかんじでやってこうかなと。基本的になんか抽象的な怒りのほうが長続きしますよね。で、憂さ晴らしにここに書く。長々と書きつづる。もう最終的にオマエは誰と戦ってんだってかんじになってくるんですけどもね。

で本題に入ると、まあこれは以前からずっとおもってきたことなんですけど、なんか、あるモノに対し否定的感情を持つ、ということに対して否定的な見方するひとって多くありません? なんか2Chのスレで悪口を言うひと/言わないひとについて議論してるとこがあったんだけど、そこでも主流だった意見はとりあえず「他人の愚痴を聞かされるのは不愉快」ってなもんでした。うん。なんで?あくまでぼくの感覚の問題ですけど、他人の愚痴ってそんなに聞いてて不愉快か? たとえばサークルのともだち二人と飯行った時に、そいつらがある人物について愚痴ってて、でもその愚痴内容があんま、というか全くもって共感できるもんじゃなかったからぼくは黙ってたわけですけど、ふうんそういうことに怒りを覚えるんだあ、おれと違うなあ程度の感想で、イヤな印象は特になかったわけだけど。それとレスのなかで、「オレは人の悪口なんて言ったことない」とか得意げなひともいましたけど、ああ、さいですか、ってかんじでした。まあ、悪口を言わない人間なんてこの世に存在しない!なんて断言する傲慢さはぼくにはありませんし、むしろそういう性悪説の都合のいい援用の仕方は大嫌いなわけですけど、「おれは悪口を言わない!なぜなら言っても時間の無駄だからだ!聞かされる方は不愉快だからだ!」うんぬんと、まあこんな口調じゃないですけどご丁寧に理由つきでカキコしてくださってる方々は相当アヤシイもんだと思いますけどね。自覚がないだけじゃねえのっていう。実際こんなすごいのありましたからね。あまりにも壮絶に頭悪いんでネタかもわからないけど。

210 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/08/30(日) 01:46:19.49 ID:ZrTyQQHe0
人の悪口とか言ったことないしw
「悪口言ったことがない奴なんていない。陰口叩いてるにきまってる」
とか言う奴は自分がそうだから相手もそうだと決め付けてるだけ。
そういう奴らは性格が悪い。
同調圧力で追従しなきゃいけないような雰囲気になるし
黙って聞いてても不快になるから死んでほしい。最悪。


212 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/08/30(日) 01:47:16.23 id:AIuuZZoB0
>>210
ん?


217 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/08/30(日) 01:49:36.78 ID:SeBpDkx7O
>>210
えっ


219 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/08/30(日) 01:49:59.87 ID:8hoCZ8rg0
>>210
自分のレスを読み直したほうがいいw


一気に三人に突っこまれてやんのww 死んでほしい、だってよ。笑っちゃうよね。君が死ねって話だよね。なんで自分の発言にすこしも疑いをもつことができないのかっていうね。たぶんコイツは自分の気に食わないことについては「批判」だなんだと名付けてボロカス言うくせに、自分と怒りのツボがかみ合わない人間の存在は受け入れられない、そういうティンカス野郎なんだろうね。だいたい、まあコイツはバカ度合い強烈すぎるにしても、悪口を言わない理由にあーだこーだと理由づけしてるやつってなんなのか。仮にその悪口をまったく言わない人間ってのがいるとして、それは正確には悪口を言わないじゃなくて言えないんじゃないのか。だって本当に悪口を(自らの意思でもって)言わないということがありうるのだとしたら、その人物は、たとえば自分の嫌いな人物Aに関して周囲が盛り上がってるときにも参加しないということになるわけですよ。すごくないっすか。あること(ひと)をひそかにUZEEEとおもってたら、じつはみんなもそうだった! これ、うれしくないっすか。すいません。ぼくはうれしいですけど。ぼくがそのUZEEEの対象だった日にはむろん全身全霊で号泣ですけど。ま、でも保身のため、トラブル回避のため参加しない、てこともありうるでしょう。じゃあ、家庭内では言わないのか。ネット上では言わないのか。本当に言わないんなら立派なものですよ。聖人君子ですよ。信念の人ですよ。でも大半は己の信念でもっていわないんじゃなくて言う環境がない、つまり言「え」ないんじゃないのか。べつに愚痴を推奨してるわけじゃないですよ。愚痴はたしかに醜いものではあります。でも醜いなりに、真摯に、本気で憤っているなら必要悪なんじゃねえのと。それをキミらが糾弾する資格はあるのかいな、と。

で、もうひとつ、愚痴を言「え」ないひとのパターンがあるはずでして。それはどんなんかというと、要するに、生まれつき悪口が言えない、そういうひと。
たとえばちょっと話が逸れるんですけど、こないだテレビに女子バレーボール日本代表選手が出てて、その番組によると彼女、練習中も試合負けたときも泣いたことがないんですってさ。で、何故? と周りが聞くと、「だって、泣いてもしょうがないじゃないですか」的な発言。いや、うん、感情表現ってしょうがアルとかナイとかそういう理由でするもんなんすかね? まあ、発言自体はカッコイイですけどね。もう済んだコトはクヨクヨしませんけど?みたいなね。ワタクシ、未来見据えてますけど?みたいなね。でもそんな合理的な生物じゃないでしょうニンゲンは。そんな合理的理由は、単なる「後付け」にすぎないでしょう。
と、ここでいきなり大風呂敷ひろげたいんですけども、ひと、殺したことありますか?ぼくはありませんけど。じゃあ、ひとを殺したいと(内心で)思ったことありますか?ぼくはありますけど。

たぶんほとんどがぼくと同じ答えなんじゃないですかね。で、じゃあその内心の殺意が実際の殺人行為にまで行きつかなかった、その理由は? ぼくは考えても考えても全然わかりませんでしたけどね。つーか理由が浮かんじゃったひとの方がアブナイんじゃないですか。警察に捕まるから?被害者の家族がかわいそうだから?どんな命も大切にしなきゃだめだから?返り討ちにされそうだから?呪われそうだから?グロいから?ちがいますね。「殺意」をじっさいに「殺人行為」にまで至らせる何かが内面に欠けているからだ。だからいつの間にか、なんとなく、殺意らしかったものは消えちゃった。大半の人はこのタイプなんじゃないのかなあ。「どうして人を殺しちゃいけないんですか?」みたいな質問を中学生がして、オトナたちがみんなびっくりしちゃった、みたいな事件(?)以前ありましたよね。で、みんな考えてみた。殺人認めちゃったら社会がカオスになるから。殺される側はすんげえメイワクだから。色々思いつくけどシックリこない。こなくて当然とおもいますけどね。健全ですよ。「ダメなもんはダメなの!」ってすごいバカっぽい解答ですけどこれが正解だと思います。論理を超えた最強の答え。他人に伝達する際には最弱の答えですけど(笑) だから質問した中学生がコイツやばくね?っておもわれたのはそういうことなんでしょう。つまり理由付けを欲してる時点でキミ殺人者予備軍じゃん、みたいな。で、聞くところによると質問を受けた誰かが、「だって、人殺しが許される社会になったらキミが殺される可能性あるんだよ?ヤじゃない?」っていったら、「そりゃあオレが殺されるのはイヤだけど」ってかんじの反応だったらしい。まあ怖い。オレは殺されんのヤだけどアイツが殺されるのヤとは限んなくね?みたいなね。これを共感能力の欠如と名付けるのは簡単ですけど、それよりぼくは、行き過ぎた相対主義を批判したい。みなさんお得意「人それぞれ!」です。「価値観は人それぞれ!」「好みは人それぞれ!」うるせえよ。うるせえんだよ。どこまでが「それぞれ」でどこからが「それぞれ」じゃないかわからないから大変なんだろうが。ティンカスが。「それぞれ」の一言で片付けようとするバカ者たちを絶対的相対主義者と名付けてみたりします。カンペキなる語義矛盾ですけど。存在自体が矛盾してる連中なのでしかたがない。言葉をしゃべる、意見を表明するというのがすでに「絶対」を前提とした行為だと気づかないんだろうねえ(笑)
あ、さっきの「殺意」と「殺人行為」との言語化無効の隔たりに関して、当然ですが、戦争はナシです。あれは国家から強制されたもんであって能動的殺人じゃないっすから。たぶん。戦場に行ったことありませんけど。もしかしたら平和ボケした考えだったりして、という疑惑がいまにわかに浮上したわけですけど。でも、たとえば快楽殺人者、「理由なき」殺人、そういうのとっても怖いですけど憎しみとか嫌悪ってあんま湧かないんですよねえ。や、もちろん身内や自分が殺されたら憎しみますけどね。憎悪して憎悪したおしますけどね。死ぬほど憎みますけどね。でもそれは当事者的、主観的立場からの感情だからであって、第三者的、客観的立場からするとどうもなんか…なんとも言いにくいかんじがします。あ、当然ですが、客観のほうが主観よりエラいとか、そういう残念な考えはぼくのなかに一切ないので、その点はなにとぞ。

つーか、客観的であることをマンセーしてるやつってどうなのよ、とここで新たに愚痴が始まりそうになるわけですけど、あまりに脱線しすぎるんで強引に話を戻しますと、要するに、悪口を言わないひとが万一いたところで、それは「悪口を言いたい!」という気持ちを生じさせる何かを持っていないというだけのことであって、そんなアナタにぼくらを非難する権利はあんのかっていうね。まあ権利はあるか。権利はあるな。どーぞじゃんじゃん非難してください。でもイマイチ説得力ないよ、っとそういうわけです。なぜなら、その非難の根拠が「後付け」にすぎないから。もしも正当に悪口人間を非難しうるひとがいるとすれば、それは前に述べた「信念の人」しかありえない。信念の人がその信念でもってぼくらを批判するのしかありえない。それ以外はダメ、ゼッタイ。自分と怒りのツボが違うからといって「ケツの穴がちいせえなあ」なんぞと(原則として)嘲笑ってはなりません。まあ、怒りのツボが違うのに周りに流されて一緒に愚痴っちゃうのはダメですけどね。黙って、とりあえず相手の怒りを聞いてあげましょうよ。愛想笑いならぬ愛想怒り、くらいはしたほうがいいかもわからないけども。つまり、「おれがその立場だったらイヤかもなあ」「そういうのイヤなひともいるかもなあ」の、この「かも」に留めとく。断定しない。保留しとく。共感しない。でも「人それぞれ」でも終わらせない。どうしても保留できない! その怒りは間違ってる!と直感で感じたときだけその直感を言語化して、まあこの「言語化」と「後付け」の区別はムズいですけども、相手に主張する。

まあでも、これはぼくみたいに他人の愚痴に耐性があるひと限定なのかもしれない。だからどうしても耐えられない、愚痴を聞くのがメンドクサイ、というひとは、本人にはっきりそう言ったほうがいいと思いますよ。一番最低なのは、「甘えるな!」とか言うやつね。「甘えるな!」「それを言ってなんの解決になる?」「みんな辛いんだぞ!」みたいなね。「みんなが辛い」ことが「だから愚痴を言っちゃいけない」という理屈にどうつながるのかさっぱりわからないんですけどね。聞くのがメンドイならそういえばいいじゃないっすかw なにその思いやりのある厳しさモドキは。学校教師でもよくいましたけどね、授業中さわがしいと、「うるさい!ほかの生徒に迷惑だろう!」まあ、そういうこともありましょうけど、まず誰より何より、自分様に迷惑だから怒ってるんじゃないのか。ちがったらすいません、なんか真摯に他の生徒を思いやってる先生もいるような気がしてきたけども。で、この例より一層タチが悪いのが「甘えるな!」ですよね。お前がその言葉に甘えてんだよ。使い勝手のいい言葉に寄りかかってメンドイ状況を上手くすり抜けようとしてるんじゃないの、て。

ちなみに、「怒り」っつってもいろいろありますけどもね。いろいろ、ってか二つだけど。具体的な怒りと抽象的な怒り。前者はこんなかんじ。「順番待ちを抜かされた!むかつく!」後者はこんなかんじ。「順番待ちを抜かされたけど、そういうことする奴ってきっとこういう考え方を持ってるにちがいない!むかつく!」まあ書いてみて思ったけどあんま変わりませんね(笑) そんなにはっきり分かれるものじゃないのかも。ただ、前者は「相手の行為=過失」そのものを責める態度、後者は相手の行為にある(かもしれない)「悪意=欺瞞」を責める態度、と定義することもできる。ぼくは後者の怒りを支持します。単なる邪推、勘違い、ひとり相撲で終わる可能性を多分に含んでいるわけですけど、支持します。

それとさっき、ポロっと「言語化」と「後付け」の区別について書いたわけですけど、これはほんとに大変な問題ですよ。もう太刀打ちできない(笑)自分の内面の真実を言語化していつでも持ち運びできるようにしようと頭を動かす、考える、すると脳内で難解な言葉たちがぐるぐるぐるぐる、回りはじめる。膨大な抽象的言語たちが津波みたく押し寄せてきてぼくを飲み込むわけです。そうすると、もうわけわかんなくなってくる。この膨大な言葉たちに対応する「現実」はどこにあるのか。軸となる現実はあるのか。見えない。まったく見えない。言葉が現実と乖離してぐるぐるぐるぐる空転しはじめる。言語の空転。意味の不在。大仰な言葉たちと卑小な現実のギャップ。あ、これ、ぜんぶぼくの好きな作家・木下古栗を読み解くためのキーワードなんですけど。彼の小説は実にくだらない。徹底してくだらない。たとえばチンコが勃起している場面を描写するために、「あっぱれな極太の一物が圧巻の勃起の様相を呈しており、」云々とのたまう(木下古栗「受粉」群像07年5月号)。そこにどんな意味があるのか。まったくもって無い(笑) 勃起したポコチンをそんな大仰に描写する必要性なんぞ皆無なわけですよ。実にバカバカしい限りです。バカバカしい限りですけど、じゃあぼく(たち)はそれを笑って突き放すことができんのか。木下古栗の小説で示されている、描かれる「風景」と描く「言葉」のギャップは、ひとがモノを考えるときに陥りがちな状況を、デフォルメしたものなのではないか。「言語化」と「後付け」に、果たして明確な差異はあるのか、という。そしてあの下ネタ小説をこうして読解・考察をすることそれ自体が、その答えを導きだす。だってこうやって一連のメンドイ思考を繰り広げて再度木下古栗を読み返すと、脱力しますからね。チンコでビンタ張ったりしてるし。肛門はしゃべりはじめるし。おれのあの深刻で難解らしき思考はなんだったんだと。エンドレス。このように、木下古栗は「世界」と「言葉」の関係、人が言葉を使って考え、伝えることの本質的な部分を小説によって提示している(かもしれない)のです。いやーすばらしい。彼の小説はほんとうに手ごわい。薄っぺらくてくだらなくて、同時にこの上なく深い。いかようにでも解釈できる。なぜなら彼の小説は、「無」を表現しているからだ。「なにもない」ことは「なんでもある」ことになりうる。や、なんか走りすぎてるな。木下古栗の凄さについてはまた絶対書きます。

なんか予想以上に長くなっちゃったな。ほんとは後半でYoutubeのコメント欄の民度の低さについて書こうとおもったんだけど。またこんど。

それと、愚痴、悪口、批判を正確に定義してなかった。まあ三つとも、「あるモノに対して否定的感情を持ち、それを他者に向かって表現すること」と広義に捉えてくださいな。狭義だと、愚痴はけなす相手が不特定多数、悪口は貶す相手が特定の事物、批判は相手関係なく論理的であること、ですかね。