はじめちゃいました

いやーはじめちゃいました。もう頑固オヤジかってくらいにミクシーやらツイッターやらブログやらを拒んでたんですけどね。なんでじゃあ今さら始めたのかって、まあ単純に暇だから。あとは大学に入ってなんか今までのクラーイ性格に拍車がかかったかんじがするから、ですかね。

中島義道のなんちゃらって本(タイトル忘れた)に書いてあったけど、毎日「死」だのなんだのに関して喧々諤々の議論を交わしてる哲学者って飲み会とかではやたらハイテンションなんですって。イメージちがうよね。なんでそうなるかっていうと、まあ、調整機能っていうの? 要するに著作の中で自分の暗い部分を吐き出してるから、それ以外の場面、他者と関わる実生活の部分には気分すっきり空っぽの状態で望むことができる、ということらしい。
なるほどねー。ってまあ中島義道がそこまで言っていたかどうか記憶があやふやですけども、要するに雑にまとめると一度ゲロっちゃえばすっきり爽快、ってはなしだね。そこんとこをおれはなんか勘違いしてたらしい。
つまりゲロ吐いたらもう二度とゲロ、止まんなかったりして、という恐怖。それでも高校時代は友達に向かってちょっとずつゲロってましたけど、大学入学を機に(友達づくりがあんま上手くいかなかったこともあって)ほとんどゲロを吐くこともなく。ゲロを我慢しつづけたら嘔吐感、だんだん消えるんじゃね?とか期待してましたけど、ええ、ぜんぜん消えませんでしたね。今考えると当たり前だけどww 恒常的に吐き気に悩まされる日々ですよ。絶え間ない嘔吐感でもう目の前のことに集中できなくなってオオボケかますこととかぜんぜんありましたからね。
だから日々考えた抽象的かつどうでもよろしいことを、もう全部ここに書きこんじまえ、とまあそういう趣旨のブログです。

で、踊り場的〜ってどんな意味のタイトルなのか。なんでそんな言葉をいれたのか。
勢古浩爾の「思想なんかいらない生活」って本を読んで、思うところがあったからです。どんな内容か、といえば、要するに難解なボキャブラリーを無駄にこねくりまわしてわけわからん理論をドヤ顔で語ってる所謂インテリさんたちを、痛烈に(批判、じゃなく)罵倒した本で、まあ手放しに絶賛できるかというとそうでもないんですけど、とりあえず「思想・哲学・文学」っていう薄着の王様(⇔裸の王様)をなんの疑いも恥じらいもなく崇めたてまつっている残念な人たち(うちの大学のゼミにもいるw)に、あの服はユニクロだよ、とそっと囁いて顔真っ赤にさせることくらいはできるんじゃないかと。まあその後殴りかかってきそうではありますけど。
で、著名な学者数名をさんざん腐したあとの第六章で、著者は、わりと真剣モードで自身についてこう述べているのだ。以下引用。

なんの因果か生まれてしまい、とりあえず死にたくないからにはこの世界を生きていかなければならない。生きるには「知」が必要である。いやらしい謙遜をしてもしかたないから言うが、わたしがこのような本を書かしてもらえるのは、いささかなりとも、それだけの「知」があるからにちがいない。むろん、「知」そのものにたいしては何の偏見もない。しかし「知」を人生の価値の一番にはおかない。わたしはいかなる意味においても知識人なんかではない。むしろ存在のあり方としては、完全に非知識人である。
けれども、哀しいことに世間ともなじまない。世間の価値になじんで何の違和も感じないのが大衆だとするなら、わたしはたぶん大衆ではない。世間と根本的には打ち解けることができない。大衆の「明るさ」はわたしにはない。陰鬱である。無口である。わたしはちっとも深刻でも難解でもないのに、世間にたいして親和的ではない。世間での当然な振る舞い、世間が求める欲望はわたしのものではない。なぜかはわからない。
 たぶんわたしは知識人と大衆の間に存在している。思想と現実の間に位置している。その場所を中二階と考えてきた。これを、ケッこのやろう、自分ひとりだけカッコイイ場所におきやがって、とおもうひとがいるなら、それはまったくあたっていない。わたしは徹底的に「ふつう」である。そんなへんてこりんな場所にあっても、徹頭徹尾「ふつう」である。


この一階(大衆の住処)と二階(インテリの住処)というたとえは勢古浩爾オリジナルのものじゃないらしいんですけど、まあ問題はそこじゃない。ぼくはこの文章を読んで、けっこうな勢いで共感してしまったのでした。どうも一階の住人とは波長があわない、世間で垂れ流される言葉たちをすんなり受容できない。けれども、二階の住人みたいに実感不可能な問題を眉間にシワ寄せて語り合うのにも強烈な違和感を覚える。だいぶカッコつけたかんじで自分のスタンスをサクっと語りましたけど、で、あげくどっちつかずの中間地点で揺らいでいるのだ。その場所を勢古浩爾は「中二階」と呼ぶことにしたみたいだけど、どうなのよ。中二階って。ググったら一応そういうものがあるみたいだけど、もっと適切なたとえがあるでしょう。
もったいぶってもしょうがないからいいますけど、踊り場です。階段が折れ曲がるところにある、あの狭い空間。
ぼくはまあ、簡単にいっちゃえば、踊り場的人間なのでした。つらいです、ここは。だって本来とどまるような場所じゃないですからね。単なる通過地点ですからね。基本一階の住人であり、そこを離れる気も皆無なくせに二階にあこがれてもいて、畏怖してもいて、たまに二階にかけあがっては観光気分でファッショナブルに議論に参加するやつとか、一階からの呼び声を受けてひょっこり顔を出して、通俗にも偏見をもたず手を出すリベラルな自分を演出してみるやつとか。踊り場でいじけてるおれの脇を平然と通り抜けていきますからね。上手くすみ分けできているのだ、一階と二階の連中は。
だからこのブログは、その踊り場の地点から一階に向けて罵詈雑言を垂れ流し、二階に向けて粘着質の唾を吐いてやろう、という気持ちでついはじめちゃったものなのでした。

ちなみに、この踊り場的立ち位置で頭を抱え、自分の在り方についてあれこれ考え続けているのが勢古浩爾、平然と高笑いしてやりたい放題やっているのが小説家・木下古栗です。ぼくは前者に共感し、後者に尊敬の念をおぼえますが、どうやらぼくは、木下古栗のようにはなれそうもありません。ぼくにどうにか出来そうなのはブログという容器にゲロを吐き出すこと、そして嘔吐後、爽やかな表情をこしらえて、一階の住人のような顔で、彼らとどうにか渡り合うことだけです。いわゆる「本当の自分を隠して」「仮面をかぶって」というやつです。それを不潔なもののように言うひとよくいますけど、まあじっさい若干不潔ともおもいますけど、もういいじゃん、かぶれるもんならじゃんじゃん、仮面、かぶっちゃえよ、っていうスタンス。つっても、いま夏休みで、書くことぜんぜん、思いつかないんですけど。最長でも一週間はあけないで更新できればなあ、とか気まぐれに考えたりしてますけど。